聖ドメニコ・サヴィオの亡くなられたモンドニオの村に巡礼に行くチャンスがありました。その家の前で仕事をしていた婦人が、「ドメニコの部屋はあちらです。ご覧になってください。」と親切に声を掛けてくださいましたので、中二階にあるその部屋に行って見ました。ところがどうでしょう。それは修復したばかりで、真っ白な漆喰が天井から壁まで輝いているだけで、机一つまだ搬入されていない部屋をひとわたり見回して、そこを後にしました。聞くところのよると、ドメニコ・サヴィオの列聖50周年が近いので、それを記念して部屋をきれいに修理して、記念館にする計画中でした。その後大聖年の巡礼で訪れた人の話では、きれいに整理され、飾られて、ドメニコを称え偲ぶ雰囲気が出来ていたそうです。
その家から少し離れたところに小さな礼拝堂があり、臨時の遺品室になっていましたが、鍵がかかっていて、詳しく拝観出来なかったのは残念でした。ここは、ドミニコが幼いながらも毎日ミサ仕えをするために訪れ、時には神父様のお出でを待って入り口の冷たい石にひざまずいていたという有名な逸話の礼拝堂でした。
15歳のドメニコ・サヴィオが帰天したのは、1857年でした。ドン・ボスコは彼の聖徳がすぐれていたことを見抜いて1858年に彼の伝記を執筆、出版しています。当時はまだドメニコとかかわった人や、友人も多数生存していたので、誤解されるのではないかと心配して、ドン・ボスコは緒言にこう書いています。「愛する子らよ、わたしたちの中には、神様の摂理によって、徳の模範となるべき多くの少年がいます。(ここで幾人かの少年の実名をあげています)しかし、すぐれた品行の持主ドメニコ・サヴィオの高い徳はこれら少年の上をいっていたのです。『彼に出来たのに、なぜ私に出来ないことがありましょう』という心で読み、励んでください。」
その後、ドメニコ・サヴィオを聖人と称える運動が起こりましたが、その当時の教会の中にはそれほど若い者に聖徳が備わるはずがないという風潮が強く、なかなか進展しませんでした。しかし、ピオ十一世は「若者には若者の聖徳がある。」と判断され、その運動を支持されるとともに、だれでも年相応の聖徳に励まなければならないことを教えられました。
「幼な子たちがわたしのもとに来るのを止めてはいけない。」(マルコ10,14)とたしなめられたイエス様の言葉を理解できなかった弟子たちでしたが、神様への道が子供たちにも開かれ、それなりの聖徳に向かっての努力をしなければならないのだと、教えられています。今日、幼い子供たちの祝福が日本の伝統によって行なわれます。彼らのために祈るとともに、子供たち自身が聖徳への道を自覚できるように導いてあげねばなりません。