かえる――戦乱状態のなかで善き伝統にかえったボエティウスとカッシオドルス

                                  協力司祭 阿部仲麻呂

■戦乱状態のなかで古代の善き伝統にかえること

5世紀から6世紀にかけて、ローマ帝国が内部分裂と同時に外部からの侵略を受けて弱体化する状況において、政治家たちをキリスト教的な価値へと導こうとした官僚たちがいた。特に著名なのが、ボエティウスとカッシオドルスである。彼らはローマの名家に生まれたが、異民族の王たちに仕えることで、ローマ帝国の土台となっていたギリシア文化の諸学問やキリスト教信仰の立場を身につけさせて新たな調和を実現しようと努めた。今日、世界中が戦乱状態であるが、二人の官僚たちのように信仰の善き伝統にかえることができるように、私たちは子どもたちを育てることが急務である。教育は未来を創る貴重なわざである。

 

■ボエティウス(Anicius Manlius Severinus Boethius 480頃―524頃)

4世紀以降、ローマ帝国は東と西に分かれて統治されていた。コンスタンティヌス大帝の子どもたちが相続争いによって帝国を二分してから、東ローマ帝国と西ローマ帝国という二つの政治的な領土運営がつづいた。しかし、二つの勢力が絶えず争うので、ローマ帝国は内部から弱体化していった。その混乱の状況に乗じて入り込んできたのが北方のさまざまな異民族であった。

476年に、ゲルマン民族の一員のへルリ族の傭兵隊長オドアケル(総督在任476-493年)が反乱を起こし、西ローマ帝国を滅亡させた。その後、東ゴート族のテオドリックがオドアケルに勝利した。

ボエティウスはローマの貴族の家系に生まれ、25歳で元老院議員に就任した。彼が目指したのは、ギリシアの諸藝術を引き継ぐローマ帝国の古典的な文化と東ゴート族の文化とを調和させることだった。つまり、ボエティウスは二つの歴史的な動向を橋渡しする役目を果たそうとした。そこで、彼はテオドリック王(在位471-526年)の宮廷に入り、東ゴート王国ラヴェンナの都にて最終的には宰相の地位にまで出世した。テオドリック王はゴート族出身でありながら、ギリシアやローマの古典文学や学問思想を好んで学び、その宮廷もローマ帝国の制度を引き継ぐものだった。しかも、常に民衆を寛大に治め、キリスト教への理解をも示した。キリストの愛情深さに立ちかえることが人間らしい姿勢だった。

なお、ボエティウスはギリシア哲学の専門用語を用いてキリスト教信仰を説明しようとした。それゆえ、彼は「古代ローマ文化の最後の代表者かつ中世ヨーロッパ文化の最初の知識人」と人びとから呼ばれている。ボエティウスはプラトンの対話篇の著作やアリストテレスの著作群や新プラトン主義哲学の作品を蒐集し、ギリシア語からラテン語に翻訳する大事業にも着手した。

ボエティウスは百科全書的な諸学問の幅広い研究をこなしたが、独創的な哲学を創始したわけではない。しかし、特に25歳から44歳にかけての約20年間の多忙なる官僚生活のさなかに古典的なギリシア・ローマの諸学問や文学の写本を蒐集し、編纂し、保存するうえで活躍した。

ボエティウスの代表作としての『哲学の慰め』De consolatione philosophiaeは獄中で記された。ボエティウスはテオドリック王から疑いをかけられて逮捕され、524年に投獄され、拷問され、裁判で死刑判決を受けて44歳で処刑された。西ローマ帝国滅亡後の政治責任者だったテオドリック王は、東ローマ皇帝ユスティヌスの勢力拡大を恐れており、ボエティウスが東ローマ皇帝と内通しているのではと疑った。ボエティウスは友人のアルビヌスがテオドリック王から疑われていることを心配して弁護を引き受けたところ、王から嫌疑をかけられた。その後、ボエティウスの後任として、同僚のカッシオドルスが宰相に任命された。

『哲学の慰め』の主題は、「見せかけの善」と「真の善」とを区別し、運命論に打ち勝ち、神の摂理に信頼することである。散文と韻文を交互に組み合わせつつ、ボエティウスと貴婦人(哲学の化身)とが対話する形式が『哲学の慰め』の特長である。貴婦人は美しい女神(ムーサ)であり、牢獄のなかのボエティウスに向かって不幸や不正や悪がはびこる現世から離脱すべきことを説き、ボエティウスの心を平安に導く。信仰や古典の善き伝統にかえることが心の慰めとなる。

 

■フラウィウス・マグヌス・アウレリウス・カッシオドルス(Flavius Magnus Aurelius Cassiodorus 485頃―580頃)

カッシオドルスはボエティウスの後を引き継いでテオドリック王を支えた東ゴート王国の宰相である。カッシオドルスもまた、すぐれた学識を備えた官僚であったが、ボエティウスにはかなわなかった。しかし、ギリシア・ローマ文化を保存し、後世に伝える役目を果たした。ギリシアやローマの古典的な哲学や文学の写本を多数作成し、東ゴート王国を教養のある新たな文化国家として再建することがカッシオドルスの夢であり、ローマ教皇アガペトゥス一世(在位535-36年)に対しても「高等教育研究機関」を設立するように上訴したが取り合ってもらえず(東ゴート王国と東ローマ帝国との戦争による影響もある)、彼は宰相在任中に人生のむなしさを感じ、早期引退をし、農村に隠棲した。554年以降、農村に、「ウィウァリウム」(養殖池)という名称の、文化を護るための修道院を設立し、数多くの修道士たちに写本を作成させた。善き伝統にかえるためである。

カッシオドルスによる著作は『霊魂論』(De anima)と『聖書ならびに世俗的諸学問の綱要』(Institutiones divinarum et saecularium litterarum)である。さらに『詩篇講解』では、詩篇の内容を熱心に観想することで、人は祈りの奥深さを知り、心の成長を経験することが強調される。祈りは神にかえる道なのである。

(教会報「コムニオ」2024年7・8月号より)

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