協力司祭 榎本飛里

このたび「つむ」というお題を頂いて、あらためて「自分が今まで一生懸命に積み上げてきたものには一体何があるだろう?」と考えてみました。そして、思わず呻吟してしまいました。いや、全く無いことはない。それなりに色々とやってきました。しかし、盛大に白髪を戴いた今になって、自分の積み上げてきたものなど無に等しいというか、むしろ役に立たないものばかりではなかったか?と思えてくるのです。

人が成長するということは完全性において神に近づくことです。それ自体、悪いことではありません。そして、人は成長する過程において様々な成果物を残します。例えば「知識」とか「経験」とか呼ばれるもの。知識や経験は、初めて通る道を行くときに、そこがあたかも「初めてではない」かのように感じさせる効能を持っています。初めてなのに初めてではないと感じさせる。つまり、安全性と余裕が提供され、危機感と緊張とが緩和されるわけです。一見して、あるいはどこから見ても良いことばかりのようですが、最近の私はなぜか納得できない。腑に落ちないのです。

人が神に近づこうとして高い塔を建て始めたとき、神は人々のコミュニケーションの手段を断ちました。神に近づくこともコミュニケーションをとることも良いもののはずではないですか?何が神の逆鱗に触れたのでしょうか?石と漆喰を用いることなく、煉瓦とアスファルトを用いることは技術革新の象徴であり、神により頼むことを捨て、人間的な力を過信した傲慢の表れである…とする解釈があります。

ひょっとして、私が感じた「腑に落ちなさ」は、私が一生懸命に人間的な努力と、人間的な目的とをもって一つひとつの煉瓦を積み上げてきたせいなのかもしれません。人生において積み上げてきたものが本当の自分を生きることの邪魔になっている…。初めて歩く道に新鮮さを感じることなく、恐れることを恐れてできるだけ「前に通った感じのする道」を選んで歩もうとする。自分の成し遂げてきたものにより頼み、限界状況を避け、まるで神の介入する余地を残すまいとするかのように安全性に拘泥する。このような姿勢は、一見、良いことに向けて努力をしているように見えても、実際には神から遠ざかっています。この期に及んで、そのことに気づかなかったか、気づかないふりをしてきたのでしょう。そして、そんな自分を好きにはなれない。

さて、一度更地にでも戻してみましょうか?どういうわけか、一つひとつ積み上げてきたものを崩してしまうことへの不安感が、今は、あまり無いのです。実は最近、「後々参考にできるように」と記録してきた説教の資料が3年分…つまりほぼ全部、溜まったのですが、読み返してみるとあまり参考にはならないことに気づいてしまいました。理由は…お知らせしませんが、過去の自分により頼まない姿勢も遣り繰り次第ではないかと思い始めています。良いものであれ悪いものであれ、縛られたくないお年頃です。

(教会報「コムニオ」3・4月号)