さらに「聖年」が定められた歴史的な経緯について述べましょう。
⑴「ヨベルの年」の伝統
「ヨベルの年」(The Jubilee year、ヘブライ語: יובל[Yovel])は、もともとユダヤ教共同体で記念された「神の恵みの一年」のことでした。神の慈愛にもとづいて、あらゆる物事が元の状況に戻される時期です(リセットされます)。その際に①「負債の免除」、②「土地の休耕」、③「貧しい者への土地の解放」、④「土地売買の解消」(売却された土地の返却)、⑤「奴隷の解放」が特に重要でした。人間社会の都合や悪によって、誰かから圧迫された者の尊厳を回復するとともに、必要以上に誰かを圧迫した無慈悲な者に回心のチャンスを提供するためです。
このユダヤ教共同体からイエス・キリストと12人の弟子たちの新たな共同体が立ち上がり、いっそう明確な形で神の慈愛を示しました。その共同体がローマ帝国の首都ローマに拠点を構え、「教会」つまり「神によって呼び集められた民」として発展し、特に14世紀から「聖年」(ヨベルの年)の伝統を引き継ぎました。
⑵ローマ・カトリック教会における動向
聖年」(ヨベルの年;ラテン語ではIobeleus、英語ではHoly YearあるいはJubilee Year)とはローマを本拠地とするカトリック教会では「ローマを巡礼する者に特別なゆるしを与える」という意図で、歴代の教皇によって定められた「恩赦の年」です。しかし16世紀にローマ・カトリック教会から分岐したプロテスタント諸派の教会には「聖年」という概念そのものが設定されていません。
川村信三師による「聖年」についての説明を引用します。——「カトリック教会は『ヨベルの年』の概念を、個々人の内的な罪からの解放に重ね合わせた。罪とは神に償いによって返済すべき『負債』ととらえていたからだ。こういう発想から、ヨベルの年にちなんで、教会の中で、ある一定の期間が過ぎれば、『すべての罪がゆるされる』特別の年『聖年』という考え方が拡がった。いわゆる『免償』の考えである。特に、定められた年、痛悔のしるしとして、聖地を巡礼する者は『免償』が得られるという規定が11世紀頃からヨーロッパに浸透するようになる。特に、千年のくぎりにあたる二千年は『大聖年』と呼ばれた。第三千年期(Third Millenium)に入る前に、ローマを訪れるすべての者に、この『免償』の特権が付与されるとあって、多くの人びとがローマを目指して巡礼した」(川村信三「15章 若者の夏——大聖年の青春」[『二十一世紀キリスト教読本——福音は日本の土壌で実を結ぶ』教友社、2008年]252頁)。
ローマ・カトリック教会では、25年に一度の時期を「聖年」として記念しています。ローマ・カトリック教会が「聖年」を制度として最初に行ったのは、西暦1300年の198代教皇ボニファチオ8世の時からです。当初は旧約時代の「ヨベルの年」にならって50年ごとに行いましたが、「聖年」を迎えることができず人生を終えてしまう人が多かったので、キリストの人生の長さを記念して33年ごとに行うようになり、さらには現在と同じ25年ごとに定められました。
なお25年ごとの聖年は「通常聖年」と呼ばれ、他の年度に教皇の意向によって例外的に定められる聖年は「特別聖年」と呼ばれます。さらに100年ごとに「聖年」を記念する際には「大聖年」と呼ばれます。なお、ミレニアム(千年期)の節目に当たる2000年は100年ごとに実施される「大聖年」に該当します。ローマ・カトリック教会では、西暦2000年をイエス・キリスト生誕2000年の年として「大聖年」を祝いました。そして教皇フランシスコは2033年にイエス没後2000年の「大聖年」を開催するように指示を出しています。
かつてはローマに巡礼することのできない事情をかかえた者に対して、同等の効果を与える措置として贖宥状(いわゆる免償符)が発行されました。これは教皇ボニファティウス9世当時の教会大分裂という事態において、フランス側の妨害によって巡礼者が苦難を受けることを憂慮したうえでの特別な措置でした。しかし16世紀のトリエント公会議(1545-1563年)での決議により贖宥状は発行されなくなり、いまでは廃止されています。
2000年の「大聖年」からは教皇ヨハネ・パウロ2世の大勅書『受肉の秘義』(1998年11月29日)によって規定が見直され、あらかじめ指定された教会聖堂も巡礼対象となりました。
教皇のはからいによって「聖年」には信者が特別のゆるしを与えられるとし、この期間中には、救済のための特別な扉である「聖なる扉」(Porta Santa)が開放されます。「聖なる扉」は、ローマの4大聖堂である、①サン・ピエトロ(San Pietro)、②サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ(San Giovanni in Laterano)、③サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ(San Paolo fuori le Mura)、④サンタ・マリア・マッジョーレ(Santa Maria Maggiore)の各聖堂にあり、通常は「聖なる扉」は固く閉ざされていますが「聖年」のときだけは教皇によって開かれるのです。
⑶今後の課題
なお、「聖年」がかかえている今後の課題についても述べておきます。特に16世紀の教皇たちが実施していた「贖宥状(免償符)」が招いた教会共同体内部の大分裂という歴史的な問題があり、それにより西方のカトリック教会の立場から飛び出す諸教派(プロテスタント)の分立が始まり、歴史的に未解決ですので、ドイツなどのプロテスタント諸派の立場としては「聖年」を認めることが難しい場合もあり、忌避されがちであるからです。
「贖宥状」は、「聖年」の際に、病気や高齢のゆえにローマに巡礼に行くことができないキリスト者たちに一定の金銭の寄付をさせることで、罪の償いを免除する配慮でした。実際にローマ巡礼を成し遂げた者が受けることができる罪の償いの免除を、特別な札を購入することで得ることができるシステムが存在しました(トリエント公会議以降は廃止されました)。16世紀の教皇たちは「聖年」を迎えるたびに、ローマ近郊の道路網を整備し、巡礼の旅の宿泊施設を準備し、さらには聖ペトロ大聖堂やバチカン図書館・美術館や他の大聖堂を修復し、ローマ市街の廃墟の復興や維持管理にも力を尽くすあまり多額の建設資金を必要としたので「贖宥状」の発行を頻繁に重ねました。そればかりか諸教区の大司教たちも教皇の許可を取りつけることで教区内の聖堂や道路の改築のための資金源として「贖宥状」を乱発しました。しかも「聖年」と直接関係のない目的のためにも「贖宥状」を発行しました。必要以上の「贖宥状」の発行に対して疑問を投げかけたのがマルティン・ルターでした。ルターはひとりの神学者として、ローマを本部とするカトリック教会の制度面のゆがみについて討議して共同体の在り方を見直す呼びかけをしましたが、様々な行き違いと差別意識やドイツ諸侯の介入が重なり、ルターは破門されてドイツの諸侯の庇護を受けてプロテスタント諸派が分立することになりました。