使徒聖パウロ

パウロの回心とその生き方

今日、聖ペトロ 聖パウロ使徒を記念します。教会がペトロとパウロを一緒に祝うのは、二人が生まれて間もない初代教会の柱となり、その基礎を固めた使徒たちだからです。
彼らの姿から私たちは、多くのことを学ぶことができると思います。けれども二人の人物を同時に考えることはできませんので、私自身、神学部の卒業論文で『パウロの回心』を取り上げましたので、恐縮ですが、「パウロの回心とその生き方」について少し考えてみたいと思います。

パウロは回心する前、彼の心の目をふさいでいたものがありました。それは律法へのこだわりです。パウロはキリスト信者になってからも律法を捨てたわけではありませんが、それ以上にキリストの福音の素晴らしさを知りました。それ故に律法の本来の意味を知ることになります。そして彼は律法へのこだわりを捨てたときに真の宣教者となりました。つまり彼のこだわりが律法からキリストの福音に変わることによって、宣教活動の大きな力となり、成果をもたらすことになったということです。
パウロ自身、コリントの教会への手紙でこう言っています。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(Ⅰコリント2.2)と。この言葉にはパウロが回心の後、何にこだわっていたかがよく分かります。パウロの熱意と情熱もすべて律法ではなく、キリストに向けられていました。

このようなパウロの姿から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは宣教のためにこだわりを捨てるということです。こだわりは、愛着という言葉に置き換えられますが、この愛着こそが、宣教の妨げになるということです。
現代、国でも、会社でも、学校でも、この愛着主義と言えるものが、発展や進歩の妨げになっていると私は思います。政治でも、多くの議員がこれでなければダメだという固執した考え方があるからこそ、国は変わっていけないのではないでしょうか。
この愛着主義というのは、教会にもあると思います。「これまでやってきたミサやお祈り、また歌が一番気に入っているので、変えてほしくない」という意見もあります。しかし、教会というものは、時代とともにそのあり方も変わってきます。教会が今の時代の人たちの必要に応えるものでなければ、存在意義がなくなるので、役割は終わってしまうと思います。

私の好きなパウロの言葉の一つに「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9.23)というものがあります。これはパウロがキリストを伝えるためだったら、その他のことはこだわらないという意味です。実際に彼は宣教の際、行く先々で、その地域や人に合わせて、宣教活動を行っていました。そしてユダヤ人に対してはユダヤ人のように、ギリシャ人に対してはギリシャ人のように関わったのです。このようなパウロの「柔軟さ」というものが信者である今の私たちにとっても必要なものではないでしょうか。

主任司祭 西本裕二