「同行二人」「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われたイエス様の約束について考えました。初金の説教の準備をしている時、これに関連した八木重吉の詩に出会いました。次にご紹介します。
こどもが
よちくたとあるきはじめた
じっさいは
わたしもいっしょにあるいているのだ
1歳を過ぎ、可愛い盛りの長女の桃子が歩いている。可愛いけど“よちくた”と歩く足取りが危なっかしくて息を止めて見つめている、そしてその半歩一歩に寄り添って歩いている自分自身に重吉は気付くのです。桃子が可愛くて可愛くてたまらない、重吉の気持ちが伝わってきます。そうするとイエス様も私たちの“よちくた”を天国から見守って下さっていることでしょう。
“祈りの詩人”と言われる八木重吉の詩です。
ゆきなれた路の
なつかしくてたえられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい
よく言われることですが、“道”は最初から作られるのではありません。同じ所を人が何回も何回も歩いていくうちに自然発生的に“道”になります。道になるためには、重吉のように“ゆきなれる”ことが必要にして不可欠な条件になります。“なつかしくて”、春夏秋冬の、喜怒哀楽の思い出の染み込んだ“道”ということになります。祈りの詩人重吉にはそんな祈りの道が既にあり、その道を描写しているような詩です。
さて、結論はもうお分かりでしょう。今日からの待降節、いつもより沢山・何回もイエス様を考えて、“私の祈りのみち”を作りたい。ゴメンナサイ!! 間違えました。イエス様のことを考えればよいのです。道は自然にできます。
主任司祭 田中次生