新約聖書の中で、イエス様がそれこそ「歯に衣着せぬ」批判をする場面がいくつかあります。それは、律法学者やファリザイ派の人々に対してです。彼等はイエスさまの「型破りの、形にはまらない“生き方”」に反発しました。その代表的な場面をルカは書きます。徴税人、罪人達がイエス様の話しを聞こうと集って来たのを見て「ファリザイ派の人々や律法学者達は『この人は罪人たちを迎えて、食事も一緒にしている』と呟いていた。そこで、イエスは、彼らに次のたとえ話を語られた。」(ルカ15:2)そして、あの有名な憐れみの三つのたとえ話が語られたのでした。「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」です。ある聖書学者は「この“放蕩息子のたとえ話”は文学作品としても、世界の最高峰を行く」と言っていますが、そのきっかけを作ったことでは、彼らも貢献したことになります。
また、マタイの聖書では23章を丸ごと使って、イエス様が「律法学者、ファリザイ派の偽善」を鋭く弾劾する場面を描きます。彼等は見た目を大切にし、律法が求める“心・精神”を忘れ、「形だけを整える」ことに汲々としていました。イエス様は、そんな彼らに対して「七つの不幸」を並べ立てます。その最たるものは「律法学者やファリザイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。あなたがたは白くぬった墓に似ている。外側は美しくても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れでいっぱいである。あなたがたも外側は、人の目には正しい人のように見えても、内側は偽善と不法でいっばいである。」と。
目に見えるところを大切にすることは、素晴らしいことですが、人間は「省エネ化」を目指し楽しようと、「目に見えるところだけを大切にする」方にいってしまい、見事「落とし穴」に落ち込んでしまいます。形を大切にすることの中で、その心を見失ってしまえば、「形式主義」に陥ります。心を大切にされるイエスさまにとって、その「形式主義」は、絶対に許すことの出来ないものだったのです。私達も、生活の中でイエス様のお望みを大切にしたいですね。