司祭年の開幕(2009-6-19)にあたり、教皇様は「み心の祭日の晩の祈り」の講話の中でこのようにお話しになりました。
- 「主はそのみ胸のみ心のうちに、私たちを受け入れて下さる」“神のみ心”は旧約聖書で26回も言及されます。イスラエルがどんなに神に反しても、全宇宙の造り主は言われます。「私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)
- 神は「限りない憐れみをもって独り子を世に遣わされた」のです。そして「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)のです。死を乗り越えるこの愛の象徴が、槍で刺し貫かれたイエスのわき腹です。
- キリスト教の根本的な核心は、イエスのみ心によって表されます。それは、私たちを救い、私たちが永遠に神のうちに生きることができるようにして下さった愛です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
- イエスのみ心は、私たちの心に呼びかけます。「私の愛に留まりなさい」(ヨハネ15:9)私は、司祭年を、アルスの聖なる主任司祭ヨハネ・マリア・ビアンネの没後150周年を記念して行うことを望みました。ビアンネの感動的な素晴らしい言葉が、すぐに私の心に浮かびます。「司祭職とはイエスのみ心の愛です」
- 親愛なる司祭職にある兄弟の皆様、アルスの聖なる主任司祭の模範に従いながら、キリストに捕えられようではありませんか。そうすれば、皆様は現代世界にあって希望と和解と平和の使者となれるのです。「完全な意味でキリストに捕えられていること」これがパウロの全生涯の目的でした。それはアルスの聖なる主任司祭の奉仕職全体の目的でもありました。この司祭年にあたり、聖なる主任司祭に祈り求めます。これが私たち全ての司祭にとっても主要な目的となりますように。そのために何よりも必要なことは、キリストの心から心を通して、愛である方の源泉である十字架上で刺し貫かれたイエスのみ心から離れないことです。
主任司祭 田中次生