フランス東部の小村「ディーニャ」の話

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横浜捜真中・高校教頭の中島昭子先生は、学校では教頭、家庭では妻であり母、また「パリ外国宣教会」についての研究者として、タフな働きをなさっている方です。バプティスト派のクリスチャンでありながらカトリックの宣教会について学位をとられたという点も実に興味深いものです。その中島先生が今春の横浜教区司祭研修会で「日本の再布教とパリ外国宣教会」というテーマで講演をしてくださいました。その講演の中で話されたエピソードをご紹介したいと思います。

日仏修好通商条約締結により、1859年江戸に入ったパリ外国宣教会のジラール師は、最初フランス領事館となっていた神奈川宿のお寺で執務をとっていましたが、1862年、横浜聖心天主堂を完成させました。場所は関内、現在の横浜中華街の入り口あたりでした。長崎の大浦天主堂の献堂式が3年後の1865年ですから、横浜が日本再宣教の最初の拠点となったわけです。今年はそれから150年目の記念すべき年に当たります。

又、中島先生は次のような興味深い事例を話してくださいました。

ジラール師の書簡を読むと、1863年に師はフランス東部のディーニャという小さな村を訪問しているそうです。その村の主任司祭は日本の殉教者の記録を読んでいたく感動し、1847年に「日本人がキリスト教を信じる日が来ますように」と毎日祈る「祈りの会」を立ち上げたそうです。村の人口の8割にあたる450人で始まった運動は各地に知られることになり、5年後には3千人を超える人々が祈りの輪に加わっていたそうです。当時、フランスでは外国宣教のために週1スーを献金するという活動が盛んに行われていました。バゲットが1本2スーの時代です。

国王や貴族に代わって、信徒が祈りと献金で宣教事業を支える時代がやってきたのです。ディーニャの「祈りの会」もそうした運動の一つでした。

21世紀に生きる私たちの教会もまたその流れのなかにあることを日本再宣教150周年にあたって、思い出したいものです。

主任司祭 松尾 貢

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