故・今野東志男師(仙台教区司祭)のこと

アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

上智の神学に入ってすぐのオリエンテーションで仙台教区の今野神学生の横に座った。お互いの召命について語り合う中で、彼の波乱万丈な召命に比べ、12歳で小神学校に進んだ自分の召命がなんだか冴えない感じで劣等感のようなものを抱いていた。今野さんは「いや、それは素晴らしいことですよ」と短いコメントをくれた。神学校を卒業してしばらく経った時、今野師が奥多摩の秋川神冥窟で座禅黙想に来る方がたの世話にあたっていることを風の便りに聞いた。

結局彼は2年間仙台で司牧したあと、神冥窟で一生を過ごした。先日、2009年に帰天した彼の遺稿集をいただいた。長い禅堂生活で瞑目した悟りのようなものが記されてあった。

  • 十字架の意味がどういうことなのかを自分の耳で聞きわけ、読み取れ。読み取らないで、苦しい苦しいでは病気に負けてしまう。十字架の意味が分からないうちは悩みや苦しみは続く。よく、「早く病気を治して下さい」と祈る人がいるが、病気も十字架、何かを伝えようとして神が与えている。それを読み解いていかない限りは、苦しい苦しいだけの病気になってしまう。
  • 救いとは何か? 私に与えられた十字架が見えた、十字架の意味が見えたということである。十字架は神が我々を苦しめるために送ってくるのではない。ある時、その人にとって一番良い時に、その人に何かを伝えようと神は十字架を通してショックを与えている。自分の人生を顧みなさいと。

今野師の葬儀の際の弔辞(東京教区高木師)の一部をご紹介したい。

  • 助祭叙階が許可されずに、私がうらみの中にあった時、「キリストは祭司長や律法学者のせいだと言って嫌だ嫌だと言いながら十字架に上って行ったのか? 違うだろう。“主イエスはすすんで受難に向かう前に”っていつも言ってるだろう」。師は、自分の人生を人のせいにするのではない、自分のものとして受け取るんだ、ということを私に気づかせて下さいました。

「一如禅堂生活二十七年 今野東志男」と書いた石巻出身の彼は、天国から何を語りかけているのだろうか。

主任司祭 松尾 貢

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