3月2日(水)京都河原町教会での仮通夜ミサに参列しました。西陣教会隣接の望洋庵で司教様の薫陶をうけた青年達が大勢参列していました。ミサ後、遺体を囲んで青年たちが歌ったのは司教様が大好きだったスペインの聖歌でした。“ただ一人歩む 日々の小路 サンタマリア あなたとともに歩む ともに歩んで下さい サンタマリアよ”
サレジオ会管区長、仙台教区司教、高松教区司教を歴任しながら、日本の殉教者列福のために奔走なさり、歩み続けた80年の生涯でした。
その昔、哲学生8名を札の辻の殉教地巡りに連れていってくれたのはローマ留学を終えて帰国したばかりの若き溝部師でした。また歴史好きの神学生数名が喫茶店に呼ばれ、キリシタン史研究を一緒にやらないか、と熱っぽく声をかけていただきました。1991年夏の野尻湖聖書学校のスタッフとして参加してくださっていた溝部管区長から湖畔の桟橋で「来春ローマに行って、修練長になる準備をしてくれないか」と言われました。「修練長! とんでもないです。もっと相応しい人がいると思いますが」と固辞しましたが、彼らは学校や養護施設の中核的存在ではずせない、とのこと。結局「私でいいんですか」と戸惑いながらも、初めてパスポートなるものをとり、翌春、鷺沼を離れたのでした。
溝部司教様は人の持っている可能性を見つけ、導きだす文字通りの教育者(educator)でした。長崎教区の古巣師が全国区となったきっかけも、長崎大司教館で「丁度よかった。古巣神父さん、188殉教者の列福の委員になってくれないか」という溝部司教様の声かけでした。高松司教を退任した後、望洋庵を拠点に霊的指導、海外派遣、聖書クラスを通して多くの青年たちを引き寄せ導く生活を過ごされてきました。
そういう溝部師もまた、良さを認められ大きく伸ばしてもらったことが原点だと「ドン・ボスコの風」14号(2015年1月号)の特集で詳しく語っておられます。戦後12歳で北朝鮮からお母さんの実家がある大分県杵築市に引き上げ、お父さんは抑留。貧しさ故に少し荒れた生活を送っていた中学生溝部少年を教会に導き、やがて宮崎の日向学院の志願院に送り、勉強に励むよう導いたのは別府教会主任のリビアベッラ師でした。溝部司教様の受洗のきっかけとなった「みかん泥棒事件」を印刷しました。ぜひ読んでみてください。