​「み名が聖とされますように」

アイキャッチ用 長澤神父の今週の糧

チプリアニ司教の解説が続く。「『み名が聖とされますように』。神が私たちの間で聖となるように。別に神が私たちから聖とされる必要はなく、かえって私たちが聖となるように願うという意味です」。

洗礼による、聖化について、司教は美しく、奥行きのある言葉を使っている。まだ、教会が、東方とローマに分かれておらず、ギリシャの文化、ギリシャの世界が言語、文化に勢いのある時代のことである。聖化という言葉には、ローマ文化とは一味違う、深い神秘的な内容が強く表現されている。

一つ、例を挙げてみよう。お告げのとき(受胎告知の時)、大天使ガブリエルはマリアに恩寵満ちみてると挨拶する。これは、ローマ典礼では「恵みあふれる」となるのだが、恵みというと何かものを前提とし、具体的に何かをプレゼントする意味に近い。しかし、原語では「ケハリトメネ」とあり、「非常に愛され大事にされているマリア」であって、具体的なものの世界よりも、私たちを、内面的に神秘に満ちた世界に引き入れるのである。そういったニュアンスを感知できよう。

その昔、洗礼を受けると成聖の恩恵を与えられるとなっていたが、「成聖の恩恵」という表現よりも、もっと古い3世紀、チプリア二司教の生きた世界では少し異なる言い方「聖化」を用いていた。つまり洗礼による聖化とは、洗礼の恵みが与えられるというよりも神の愛情あふれる慈しみを指す言葉であった。であるから、彼が続けて神は私たちを義とされるとあるのは、義と認めるとも取られる。

 

終わりに、司教は聖書を引用して、「『みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません』(Ⅰコリントの信徒への手紙6章9節以下)。がしかし、たとえそのような人であっても、あなたたちは主の名において、清く洗われたのであり、聖なる人となったのです」。

主任司祭 長澤幸男


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