わたしたちを誘惑に陥らせず

バビロン捕囚(ジェームズ・ティソ画)

しばらく、中断していた、チプリアニ司教の「主の祈り」をまた続けることにしよう。今日のテーマは「誘惑」である。まず司教は、誘惑をこのように見ている。旧約聖書にこう記してある。

バビロンの王ネブカドネツァルも来た(中略)バビロンの王はその治世第8年に王を捕らえた。主が告げられたとおり、主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。(中略)バビロンの王はすべての軍人7,000人、職人と鍛冶1,000人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った。(列王記下24章)

神はイスラエルの民が悪を行なったが為に、罰としてバビロンの王(悪魔の象徴)がエルサレムを破壊するのを許された。さらに、今日でも、私たちの悪業のため、サタンが暴威を振るうことを許されるのである。もう一度言う。誰がヤコブの民の不正と悪が原因で、悪魔が誘惑するのを許したのだろうか? 神ではないのか。神の怒りがなしたのである。ソロモンの場合でも然り。

説明を要する。同地代の状況を描写しているは「エレミアの哀歌」である。美しい詩の形を取りながら、内容は実に憺惨たるものであり、悲惨そのもの。

先の大戦の間、ドイツの、ナチスによるユダヤ人大量殺害、約600万ともいわれるユダヤ人の虐殺による涙も、想像するに余りある。

さらに、9章22節には別の表現で『人間の屍が野の面を糞土のように覆っている』となっている。死体が放置されているということだから、荒廃し、野ざらしになっていることで国の滅亡を言い表しているのである。

このような現実を、私どもは、3.11で見たばかりである。戦争によるものではなく、天災だが。原発による悲劇を目の当たりにして、その記憶は生々しく残っている。それに最近の温暖化が原因の洪水の多さに驚き、目をそむけざるを得ない。それが人間の愚かさの象徴でもあり、傲慢に対する神の裁き、神がサタンが猛威を振るうのを許していると、チプリアニ司教ならば言うのかもしれない。

主任司祭 長澤幸男


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