NHKの日曜大河ドラマ「八重の桜」に登場する新島襄。彼は安中藩士・新島民治の長男として、天保十四年(1843年)江戸神田にあった上州安中藩江戸屋敷で生まれました。本名は<七五三太>だったそうです。この面白い名前は、女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び、“しめた”と言ったことから命名されたと言われています。今日、七五三をお祝いする子供たちの名前には、きっとご両親の深い思いがそれぞれ込められていることでしょう。

ところで、「三つ子の魂、百まで」という諺があります。幼い時の性格は年をとっても変わらないという意味で使われています。この言葉に関して、カトリック内観を指導している大阪教区の藤原直達師が内観の機関誌『息吹』の巻頭言で次のようなことを指摘しています。

内観で調べる時に重要な時期は、幼少年期にある。

青年が進路に迷ったり、心の病を抱え持って、自分のアイデンティティーが分からなくなったりして、じっくり見直そうと内観に来られる。内観では、青年期の目の前の問題や闇(病み)を分析したり、詮索したりしない。生まれてから、幼少年時代までを注意深く調べる。その時代に、すでに様々な答えが隠されているからだ。どこで喜々としていたか、何に長所が現れていたか、愛の体験は? いつ自我の主張があったのか、どのような傷やトラウマがあったか、嘘や盗みの体験はどうだったか。それらについて、理屈や弁解を避け、客観的事実を積み重ねていくという調べ方である。

教会の2000年の歴史について考えてみよう。百年を1年とすると、教会は今、21歳の青年と見ることができる。教会誕生の初めの3歳、300年まではどうであったか、500年まではどうであったか、という風に、神の導きと人間の我執を見直す。今、教会自身を内観するとしたら、初代教会の原点に戻り、その生き生きとした時期を調べることが肝要ではなかろうか。
教皇フランシスコの姿は、まさに教会的内観を極めた方の生き様と映るのではないだろうか。

主任司祭 松尾 貢
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