私がまだ教会にいたころ、主任司祭のモロ神父様から「キリスト信者のたすけなる聖マリアより恵みを受けるために聖ヨハネ・ボスコにより勧められた九日間の祈り」という信心業を紹介され、信者の間で広く行なわれていました。それは九日間続いてある定められた祈りをすること。告白と聖体の秘跡にあずかること。サレジオ会の事業を援助するために応分の寄付を行なうこと。という3つの条件でした。それを行なった人はそれなりの恵みをいただいたことだろうと思います。
このときに信者の間でいろいろ議論になったことは、大切な第一、第二の祈りとか秘跡のことではなく、最後のサレジオ会事業に寄付を行うということでした。当時の世相は、戦後の立ち直りの途上にあり、種々の援助によって生き続けている状況でした。今のようなボランティアとかNGOなどの活動もなく、わずかの慈善事業が始まろうとしている折でしたので、寄付をするとか、サレジオ会事業だとかは頭の中に入ってこない頃でした。そのため、信者の間では寄付をすることや、そのやり方、手続きなどもわからず、そのことで議論したりしてこの信心業の中心を見失っていました。
ドン・ボスコは、聖母マリア様の取次ぎによってお恵みをいただくということを通じて、子供たちや信者が神様に近づき、秘跡に近づくのを刺激していたのでしょうが、まだ戦後の若かった日本の教会ではそこまで掴みきれず、本質を見失ったような議論が展開していたのではなかったかと考えさせられます。
このことを思い起こしながら、信仰生活、特に自分の望んでいる修徳への手段とか、信心業などにおいて、気をつけねばならないことが感じられます。根本的なことを理解せず、末梢的な部分にしがみつき、それ以外が見えてこないこともありえます。これは注意しないと、キリストの福音を生き、キリストからいただく平和を人々に証ししていかねばならない教会生活や教会組織においても、いらないところに固執してしまうことがあります。これは大いに注意し、正していかねばならないところです。
イエス様は、ファリサイ派の人々の生き方、やり方を非難されましたが、これは私たちにも言われていることだと考えねばなりません。「あなたがたは不幸だ。ぶよは漉して出すが、らくだは飲み込んでいる。」(マタイ23,24)