聖パウロの視力を回復させるアナニア(ジャン・レストゥー2世画)

主任司祭 西本 裕二

「あらためる」というテーマを考える時、私は「悔い改める」という言葉を連想します。
それはキリスト教に欠かせないものだからです。悔い改めるとは、‟かいしん” することです。しかし、‟かいしん” には、「回心」と「改心」の2つの漢字があります。キリスト教で使うのは「回心」です。神に心を向けるという意味です。
また聖書に見られる回心は、旧約聖書では創世記に始まり、人間の犯した罪から回心させるため預言者を遣わすことなどが記されています。新約聖書では、イエス・キリストが救い主であるという「福音」を受け入れることとして、特にパウロの回心などで頻繁に使われています。原語は「悔い改める」「立ち返る」という意味です。回心はパウロの生き方のように180度、主に立ち返ることです。そしてこれが救いの道を歩むことです。

一方、改心は「悪い心を改める」「心を入れ替える」という意味です。たとえば非行少年が改心するなどで使われます。しかし、この改心は道徳的なものであって、宗教的に神に向かったものではありません。
ですから、私たちは、神に向かって“回心”していなかければならないのです。

今年も1月25日、教会は「パウロの回心」を記念します。パウロの回心は、その場でパウロが主に立ち返ったかのような劇的な回心を想像するかたが多いでしょう。しかしパウロの回心には、私たち同様に時間が必要でした。彼はダマスコにキリスト信者を捕らえるために旅立ちます。しかしその途中、復活したキリストの声を聞いて、落馬して目が見えなくなります。そこで再びキリストの声はアナニアという信者の家に向かうように言われます。そして3日間、そこに滞在してパウロの目は見えるようになったのです。つまりパウロは、アナニアの家で自分自身を深く見つめ、それによって回心することができたということです。
使徒言行録で「サウロ(回心する前のヘブライ語での呼び名)は、3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9章9節)という記述からもここでの出来事がパウロの回心への準備となったことがわかります。

回心は、決して特別な人にだけ求められるものではありません。すべての人に召命と使命に繋がったものとして求められるものだと思います。パウロ自身、回心の体験によって、同時に召命と使命を与えられています。「キリスト者となる」召命とともに、「異邦人に福音を伝える」という使命をもたらしました。これはパウロの召命も使命も回心とまったく同時に始まったことを示しています。つまり召命も使命も回心と同様に神の恵みに基づくものであったということです。回心は、神が人を召し出し、人がそれに応えていくところに始まります。パウロの回心はまさにそれを私たちに教えてくれています。

私たちもそれぞれ神から呼ばれてキリスト者となりました。そこで大事なことは、パウロのようにキリスト者であることを誇りと喜びをもって、福音宣教の使命を果たしていかなければならないと思います。
よく信徒のかたの中には、自分がキリスト信者であることを知られたくなくて、職場や近所で隠しているというかたがいます。隠れキリシタンのような生き方ですが、現代、迫害はないので、私たちは自分の信仰を無理に隠す必要はないでしょう。なぜなら、そのような生き方は本当の意味で使命に繋がっていかないからです。もちろん自分からキリスト者であることを宣伝する必要はありませんが、自分自身を深く見つめ直し、神に心を向けることによって、私たちは新たな心で、それぞれに与えられた使命を果たしていくことができるのではないでしょうか。

(教会報「コムニオ」2022年1月号より)

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