チプリアニ司教は、「日用の糧を今日」といった点を次のように展開している。
「世の華やかさと贅沢を捨てた人は、信仰心から、主が、『自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人として弟子ではありえない』(ルカ14章33節)との教えの通り、毎日の必要な糧のみで満ち足りるとすべきである」。
また、さらに「『明日のことで思い悩むな。明日は明日で心配すればよい。富で満ち足りた1日はかえってトラブルのもとである』。と主は言われる」。ですから、1日の生活の糧のみを考え、あれが欲しい、これがあったらと思い煩わないことです。また、この世にあって何がなんでも長寿を求めたり、かといって早く神の国が来ることを願ったりすることも主は喜びません。
最後にチプリアニ司教は当時の信徒を次のように諭している。「主の弟子の言葉を聞きましょう。『私たちは何も持たずにこの世に来ました、世を去るときも何も持ち出すことはできません。毎日、最小限の食事と衣服で事足ります。金持ちになり、贅沢すると、誘惑のもととなります。人を傷つけるような欲望は破壊と死の宣告をもたらすものです』」。(注)
キリストの昇天後、200年も経ていない当時の信仰の「さま」を垣間見る思いである。「何を食べ、何を飲もうかと心配するな」とのイエスの言葉がいまだに新鮮な響きが聞こえてくる時代であったと推察する。
残念にも、「貧しさ」は中世に入ると、ただの「貧しさ」よりも霊における貧しさにアクセントが置かれ、修道士たちの貧しさの考えが徐々に薄れていった。アッシジのフランシスコまで待たなければならないのである。
(注)出典が不明。おそらく当時、使徒のことばとして広く人びとに広まっていたのであろう。
主任司祭 長澤幸男