わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください

アイキャッチ用 長澤神父の今週の糧

「私たちは、祈り、主に願います。『わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください』。精神的な糧とともに、今日、明日に必要な食物をお与え下さいと」。

チプリアニ司教は、ここでダイナミックな世界を提示する。永遠から定められた神の救済、つまり人類の救いにとっては、単に精神的な糧だけでなく、日用の糧も必要と見ているのである。これは、司教よりも少し以前の北アフリカの教父テルトゥリアヌスの有名な格言に相通じるものがある。テルトゥリアヌス曰く「人間の生(生きること)は神の栄光である」。

チプリアニ司教は続く「キリストは、私たちにとってパンである。したがって聖体祭儀を通して、キリストの御体をいただくことは大切である。しかも毎日である。」

ここから初代教会では毎日、聖体を受けていたという事実が見えてくる。

ところが、ヨーロッパのキリスト教国では、徐々に聖体と感謝の祭儀が分離され、聖体を尊ぶことにのみ重点が置かれた結果、聖体は恐れ多くも崇拝されるべきこそすれ、人びとから離れた存在になってしまった。

さらに、追い討ちをかけたのは、17世紀以降に大きな影響を与えたヤンセニズムである。この考えは、人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調するあまり、聖体に近づくことはまかりならんとする気風が信徒のみならず、修道院にも教会にも広まっていった。19世紀に入っても然り。我らの師ドン・ボスコの回想録には「聖体拝領のほうは、主日と特別な祝日にしか許されていませんでした」(『ドン・ボスコ自叙伝』114ページ参照)とある。

主任司祭 長澤幸男


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