助任司祭 土屋 茂明
「新カトリック大事典」には、次のように記されている。
ドメニコ・サヴィオ Domenico Savio (1842.4.2~1857.3.9) イタリアの聖人。
トリノに近いリーヴァに、鍛冶屋と女仕立て屋の10人の子供の一人として生まれ、アスティのマンドニオに没す。
ジョバンニ・ボスコの知遇を得、彼のもとで霊性を養う。若い頃から規則の遵守、博愛、助言の才、エウカリスティアの尊重などの徳を備えていた。
1857年、おそらく結核が原因で両親のもとに帰り、死去。彼の死後、ジョバンニ・ボスコはサヴィオの霊性を記録する伝記を記した。
1950年列福、1954年列聖。
ドン・ボスコによるドメニコ・サヴィオ伝
ドン・ボスコは3人の若者の伝記を書いている。『ドメニコ・サヴィオ伝』『ミケーレ・マゴーネ伝』『フランチェスコ・ベズッコ伝』である。
サヴィオの死後、2年にもならない、1859年の1月に、サヴィオ伝の初版は公刊されている。
3人の若者の伝記はドン・ボスコの教育精神、若者の修徳、霊性についての考え方が見事に示されている。ドン・ボスコの霊的指導方法の基本は確立されていたが、1つの型にはめず、一人一人に応じて行なわれていたことも、この3人の伝記によってうかがうことができる。サヴィオとベズッコは、ドン・ボスコに出会う前に信仰教育も受けており、その上に霊的指導を積み上げていったのである。わんぱく大将のマゴーネは駅前広場で出会い、まもなく、ドン・ボスコの学校に迎え入れられたが、すぐには馴染まなかったので特に守護の天使役の生徒を付け、生活に溶けこませ、徐々に聖性へと導いていったのである。
尊者チマッティ師による「サヴィオ伝」(訳)の発行
ドン・ボスコ著の『ドメニコ・サヴィオ伝』を、チマッティ師は来日まもなく発行している。昭和4年3月9日発行。訳文印刷兼発行者は宮崎教区長チマチ。発行所は宮崎市天主公教会となっている。その当時にあっては、大変立派な装丁の単行本である。
若者たちのために、聖性の模範としてドメニコ・サヴィオを広く知らせようと願ったドン・ボスコはこの伝記の前書き「読者へ」の中で書いている。
「皆さんの中には、きっとぼくらの模範となる徳の高い少年はほかにも、たくさん居るのに、なぜ、ドメニコ・サヴィオ伝をことさらに書くのですかと尋ねる者もあるでしょう。たしかに、神様の御はからいによって私たちの中には、徳の模範となる多くの少年が居ます。けれども、ドメニコ・サヴィオははるかに卓越した聖性の持ち主なのです。皆さんは、この本から、素晴らしい収穫を得なければなりません。つまり、聖アウグスティヌスの言葉どおり、彼に出来たことを私にも、出来ないことがあろうかと」
ドン・ボスコはサヴィオ伝を読んだ若者たちが、同じように、聖性の高みへと駆け登っていくことを願っていたのである。
このドン・ボスコの思いを同じくしていたからこそ、チマッティ師はあれほど早い時期に、聖ドメニコ・サヴィオ伝刊行に踏み切ったのであろう。
聖ドメニコ・サヴィオの年譜
1842年 4月 2日 | トリノ郡キエーリ近郊のサンジョヴァンニ・ディ・リーヴァで生まれる。父は鍛冶屋、母はお針子 |
1843年11月 | 家族とともにベッキ近郊のモリアルドに移り住む |
1849年 4月 8日 | わずか7才で初聖体を受ける |
1853年春 | 家族とともに、アスティ郡モンドニオに移り住む |
1854年10月 2日 | ベッキでドン・ボスコと出会う。そして彼とともにトリノ郡トリノ・ヴァルドッコへ行くことになる |
1857年 3月 9日 | 長患いすることなく、モンドニオにて死す |
1950年 3月 5日 | ピオ12世により福者に列せられる |
1954年 6月12日 | ピオ12世により列聖される |