復活されたイエスは約束通りガリラヤの湖畔で弟子たちに現れ、不思議な大漁によってご自分をお示しになったあと、ペトロに向かって「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、あなたはわたしを愛しているか」と尋ねられます。「わたしを愛しているか」は一度だけでなく、三度も繰り返されました。ペトロは「はい、愛しています」と答えたものの、「あなたは知っておられるはずです」と答えざるを得ませんでした。そのペトロに「わたしの子羊を飼いなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」とお命じになりました(ヨハネ21,15~17参照)。これによって以前「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16,18)と言われたことを具体的に示されました。
偉大な功績を残されたヨハネ・パウロ2世が神のもとに召され、今世紀最初のコンクラーベによってベネディクト16世が聖ペトロの後継者に選ばれ、今日、就任のミサが行われることになっています。ペトロの後継者に要求されることは、「あなたはわたしを愛しているか。この人たち以上に」ということなのです。ヨハネ・パウロ2世は凶弾に撃たれた後遺症や、高齢からくる病の苦しみからキリストの「この人たち以上にわたしを愛しているか」という言葉の重みを感じられたことでしょうか、伝えられるところによると「教会の指導者としての職務をいつ終えるべきかを神が示してくださるよう願った」ということです。(カトリック新聞2005/4/24)しかし、「わたしの子羊、羊を飼いなさい」という命令に忠実であることこそ愛の証しであり、イエスがかつて「わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10,15)と言われたことに従う道と考えられたのでしょうか、最期まで職務を遂行されました。
ヨハネ・パウロ2世の病状悪化からご死去、新教皇の選出にいたるまで、日本のマスコミでも関心の高さを示していました。これは非常にありがたいことですが、ここで注意すべきは、報道の中で時折示されるような世俗的な考えと理解だけで捉えてはキリスト者として不足だということです。考えなければならないことは、キリストの命令があくまでも「あなたはわたしを愛しているか。この人たち以上に」であって、その飼っていくのは「わたしの子羊、わたしの羊」すなわちキリストのもの、神のもの、神の民を導いていくのです。さもなければ聖パウロが弟子に忠告するように「そのとき、人々は、自分に都合のよいように、耳を楽しませる教師たちを大勢手もとに集め、そして、真理に耳をそむけ、作り話に心を傾ける」(2テモテ4,3)傾向に加担するようになるかも知れません。その意味からも、この重責を身に受けられる新教皇ベネディクト16世の上に聖霊の豊かな注ぎと祝福があるよう祈らねばなりません。