「トリノ市がラ・サール会に委託したポルト・パラッツォの小学校高学年に通っていたミケレ・ルアは信心深く、まじめで、勤勉な子だったので、修道会はミケレが入会することを希望していた。登下校の途中、ミケレは時折ドン・ボスコに出会うと嬉しそうに走り寄り、手に接吻し、メダイをおねだりした。ドン・ボスコは自分のビレッタ(司祭帽)をミケレの頭に被せ、左手を出して右の手で二分するようなゼスチャーをした。『取ってご覧ミケレ、さぁ取って』幼いミケレはちょっとまごついて、ドン・ボスコがどういうつもりなのかと不思議に思った」(サレジオ会ホームページ、福者ミケレ・ルア伝より)
すべてを山分けすること。すべてはお互いのものであること。中学校にも上がらないミケレには分からなかったことでしょうが、神様の計らいは常に彼らの上にかかっていたのでした。ミケレ・ルアはドン・ボスコと生涯を共にし、お互いに一致してサレジオ会の創立、発展に尽くしました。
思いもかけず、鷺沼教会に赴任することになった今日、ドン・ボスコとミケレ・ルアのこのエピソードが思い浮かばれました。今日から私は鷺沼教会の皆さんとすべてを分かち合い、すべてを共有しながら、神の方に向かって歩んでいきます。司祭は一人で神の道に進歩するものでもなく、信者も自分だけでは徳の道を進むことはできません。司祭と信徒が一致し、一緒になって歩む時、信仰生活において、霊的生命において向上することができるのです。
チマッティ神父様は「……と一緒に」と言うとき、表題のように「と一緒に」と独立して用いる口癖がありました。その時はたいてい5本の指をひとまとめにして前に突き出すのですが、右の人差し指が爪のところから先がありませんでしたので、ひとまとめにするそのゼスチャーと「と一緒に」と言う口癖が強く印象に残っています。
私たちの小教区共同体が「と一緒に」なって神の御国の証となり、人々への恵みの伝播者になるよう働かなければなりません。
「信じる人々の群れは心と魂を一つにして、誰一人その持ち物を自分のものといわず、一切を共有していた。一同はひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で分け、祈りをしていた」(使徒行録4・22、2・12)