日本を含む全世界のマスコミが報じる中で、カトリック信者のみならず多くの人がヨハネ・パウロ2世教皇様の後任者がいつ選ばれ、誰が選ばれるかと興味を持って待っていました。白い煙だろうと期待する多くの人々に、鐘の音が響きわたり、聖ペトロ広場を埋め尽くしていた人々を歓呼の渦に巻き込みました。今や遅しと待っていた群衆を前に、大聖堂のバルコニーに現れた枢機卿は、伝統に従ってラテン語で「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私はあなたがたに大いなる喜びをお知らせします。私たちに教皇が授けられました。」と宣言しました。(カトリック新聞3810号)この「私たちに教皇が授けられました」という言葉は、有名な「HABEMUS PAPAM」という言葉で、「私たちはパパを持つ」と直訳される言葉です。
この短い言葉が、典礼の中の重要な部分で用いられていることに注目したいと思います。ミサの奉献文に入るときの序唱の始まる前に、ラテン語の規範版では「司祭: SURSUM CORDA 心を上のほうに」とうながし、「会衆: HABEMUS AD DOMINUM 主の方に持っています(上げています)」と応えます。日本の典礼ではこれを司祭の呼びかけの言葉として一つにまとめ「心をこめて、神を仰ぎ」となっています。
私たちの信仰生活において、常に「心を高みに」、すなわち「主の方に」向けていくことは重要なことであり、これがあるからこそ信仰者といわれるわけです。もちろん、私たちの日常生活はいろいろな雑事に追われがちであり、人間として生きていく上でこれも重要なことですが、そういう中で「心を高める=主に上げる」努力をしていかねばなりません。そのとき神からいただいた信仰の恵みと生きる喜びをかみ締めることができますし、私たちの周りの人も、同じ神から愛されている人であるということが真に理解され、人々への愛が人間的レベルを超えた次元で自分のうちにかもし出されてきます。
「聖テレジアの内的生活の結果は、自分のうちに閉じこもることではなく、かえって、内的生活が深まるにつれて、彼女の心は教会とその必要、すべての人とその必要に対して常にますます開かれてゆきました。そして彼女はその娘たちに、またすべての人に、祈り・犠牲・徳の行為、そして生活全体を、自分自身を忘れて、すべての人のためにささげるように教えます。」(「神への渇き-アビラのテレジア」カルメル会編203)
「SURSUM CORDA 心を高める」ことによって、この世から離れてしまうのでなく、自己に閉じこもるのでもなく、神とともにこの世の中に入り込み、生き抜くことになるのです。