「サレジオ会は、今度浜松に事業を起こすそうだよ。」「そうとうお金を持っているのだな。」という会話がどこかで行なわれたということです。前半の方は本当ですが、それに対する応答の部分は大いに疑問が投げかけられます。
サレジオ会の海外宣教50周年にあたる1925年、懸案だった日本への宣教師派遣が実現しました。その年の暮れ、ジェノワ港をあとにしたフルダ号には、アジア地区に派遣される宣教師や日本を目指すチマッティ神父様らの最初の宣教師とともに、ウィーン大学で中世史と社会学を専攻し、今帰国の途についた後の一橋大学教授、学長である上原専禄先生がおられました。上原先生は、すぐにチマッティ神父様の人柄を見抜かれ、親しい会話をかわす間柄になるにはさほど日数もかかりませんでした。
上原先生の問いかけにチマッティ神父様は、日本での宣教活動の夢を語っています。「最初は教会で働きましょう。そこの信者さんが待っています。そのうちに子供たちを集めて遊ばせる運動場が必要になります。そして学校や職業学校、職業訓練所を作りましょう。」「それでは、よほどの資金を持ってこられたのでしょうね。それだけの事業をやっていくには莫大なお金が必要でしょう。」「私たちにはそういうものはありません。神様がはからってくださるでしょう。」「皆さんは、日本に赴いて働かれるのに、ほとんど日本語はご存じないでしょう。さぞかしお困りになりましょう。」「主は、どうなるかを知っておられるので、私たちは心配には及びません。主は、よりよくはからって下さいますから、すべてをゆだねています。」「それでは、船旅の間いくらかでも日本語の手ほどきをさせてくださいませんか。」「これは本当に神様のはからいです。神様があなたを遣わしてくださいました。感謝します。」それから毎日2時間の授業が行なわれました。(チマッティ神父の生涯 上 331)
イエスは「これらのものが皆、必要であることを知っておられる。」(マタイ6,32)と言われて、神様のはからいと、それに委ねる姿勢を教えられています。こういうことはわかっていながら、なかなかそのようにいかない苦しみをわたしたちは日々味わっています。チマッティ神父様のように、日常生活のなかに展開する自然の営みすべてに、神様のはからいが及んでいることをとらえることが、信仰生活と霊的生活の向上に大切なことかも知れません。