宣教活動というと教会の教えを広め、信者を増やし、諸所に教会の建物と信者団体を造り上げていくものだと考えていた時代がなかったわけではありません。しかし、真の宣教とはそのようなものではありません。信者各人が聖体祭儀において復活されたキリストと出会い、キリストと一致した喜びの体験を多くの人々に感じ取っていただきたいという心からの発露にほかなりません。「十字架上で死に、復活された主のからだと血で養われているわたしたちは、この『賜物』を自分たちのためにだけ保持するのではなく、むしろ、これを広く分かち合わなければなりません。キリストへの熱い愛は、キリストを勇敢に告げ知らせるように促します。」(2005年世界宣教の日の教皇メッセージ3)

この一年間、聖体におられるイエスの方に眼を向けて過ごしてまいりましたが、すべての人の救い主であるキリストを認め、一致し、受け入れるようにと、聖体におられるイエスを差し出すようにと努力することがわたしたちにとっての使命となります。

ミサ聖祭において、司祭は聖変化の言葉を唱えるとき、キリストの言葉をそのまま告げて言います。「引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、『これは、あなた方のためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行ないなさい。』」(1コリント11,23)故ヨハネ・パウロ二世教皇様は、今年の世界宣教の日のため「全世界のいのちのために裂かれたパン」というテーマを遺してくださいました。今日ほどわたしたちの人類社会にとってもっとも大切な「いのち」がなおざりにされ、また、心の分裂している時代はないのではないでしょうか。そのため全人類のためにいのちをささげられたキリストが、今なお聖体というパンのうちに裂かれることで一つになることを願っておられることを思い起こし、聖体に眼を向けさせ、いのちの大切さを感じ取るようにと勧めておられるのです。

キリストは、牧者のいない羊のよう打ちひしがれている群集に哀れみの眼を向けられ(マタイ9,36)、ご自分のからだを食べる者は飢えることがない(ヨハネ6,35)と教えられ、わたしたちに勇気を与えてくださいました。今年、わたしたちが祈っている「キリストの呼びかけに、一人ひとりが進んで応えることができますように」の祈りと決意が、特に今日の「世界宣教に日」にあたって自分自身を差し出す決意となるよう願ってやみません。

小坂神父
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