黙想会から急遽帰ることになり、中軽井沢駅に行きました。切符を買おうとしたら「新幹線の切符は軽井沢駅で買って下さい」と言われ、やむなく200円で軽井沢までの切符を受け取ろうとして、その横にあった「当駅の業務は○○会社が請け負っています。しなの電鉄」という張り紙に眼が留まりました。一瞬頭をよぎったのは「これで大丈夫なのかな」という思いでした。ホームを歩きながら、しなの電鉄の会社が、各業務を下請けに出して、仕事が分断されていて大丈夫だろうかといらぬ心配をして、不安感を感じていました。
列車の来る間、ホームのベンチに一人腰掛けて、ふと前の線路を見てびっくりして立ち上がり、上りの方と下りの方をはるかに見渡しました。そこには敷き詰められたきれいな砕石の上に枕木が並び、しかもその砕石が丁寧に整備された形で続いています。先ほどの危惧が恥ずかしいばかりでした。そのきれいに整備された砕石と枕木の上の線路を見ていると、その昔、国鉄の線路工夫が3、4人ずつ組に並んで、特別な鶴嘴で枕木の下に砕石を打ち込む姿がオーバーラップしてきました。今はどこにも見受けられない光景でしょうが、独特の節回しの歌を歌いながら作業を続け、一つひとつ枕木の下に砕石を打ち込む保線区の人々の懐かしい姿です。今で言えば下請けの会社のような人が、黙々とただ列車の安全だけに心を向けて作業を続けていたのでしょう。胸のポケットから取り出した時計を見ながら白の手袋をした右手をさっと上に伸ばして発車信号を送る助役さんの姿に、この列車は正確安全なのだとの安堵感を抱いたものでしたが、その裏で国鉄の安全な輸送が行なわれるようにと保線の使命感に燃えて作業を続けていた人々がいたのだなと考えが及んでいきました。
わたしたちにとっても一人ひとりの使命感こそ、神のみ国のために自らの信仰を奮い立たせてくれるものなのです。「体は一つでも多くの部分があり、体のすべての部分は多くあっても一つの体であるように、キリストの場合も同じです。……それで、もし体の一つの部分が苦しめば、すべての部分もいっしょに苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、すべての部分もいっしょに喜びます。あなたがたはキリストの体であり、一人ひとりその部分なのです。」(1コリント12,12;12,27)「今、あなたがたのためにこれらの苦しみを受けていることを喜んでいます。キリストの苦しみの欠けているところを、キリストの『体』のために、この身で補うのです。キリストの『体』とは教会のことです。」(コロサイ1,24)と聖パウロは教えてくれています。『教会』のための使命感こそ、私たちの信仰のあかしなのです。