わたしたち鷺沼教会の保護者聖ドメニコ・サヴィオの先生であり、当教会を担当するサレジオ修道会の創立者であるドン・ボスコの祝いを迎えることになりました。よく言われる「ドン」とは、主人を表すDominusが転じたもので、19世紀のイタリアでは神父に対する敬称として用いられていました。ドン・ボスコ自身も子どもたちからこの名で呼ばれることを好み、それが現在にも続いています。

ドン・ボスコは、そのモットーとした聖書の言葉「主よ、私に魂を与え、他を取り去ってください」(創世記14,18)を、生涯にわたって実践し、この世的なものにとらわれることなく、魂の救い、特に若者の救霊のために全生命を捧げました。

1854年秋、ドン・ボスコの学校に入ったドメニコ・サヴィオは、ドン・ボスコの部屋に入ったとき壁にかけていたこの言葉に目を留め、早速「ここでは、お金の取引ではなく、魂の取引をするのですね。僕の魂を神父様にお委ねします。」と言いました。その言葉に違わず彼はドン・ボスコの導きのもとに短時日のうちに聖人の道を駆け上って行ったのでした。

現代は、とかく地上的な福楽を追い求める傾向にあり、お金によって物事を解決することが正しいものであるという考えが蔓延しています。ドメニコ・サヴィオが看破した魂の取引を第一とする世界が出現するとき「神の国」の到来が近づいてきます。

今年の冬はなんと言っても、多くの目が「トリノ」に向いています。トリノこそドン・ボスコがその生涯をかけて若者の魂の救いのために働いた場でした。イタリア独立の気運の中で、あるいは反聖職主義の動きの中で、政治的社会的困難な問題をくぐりながらひたすら次の世界をになう若者のために尽くしました。

トリノを目指して励む人々は、一生懸命精進し、鍛錬し、あらゆるものをトリノのその時に向けて努力し続けます。その努力をたたえるとともに、それを見ている私たちに対しても投げかけられる聖パウロの言葉をかみしめなければなりません。「競技場で皆走ることは走っても、賞を得るのはただ一人だということをあなたがたは知らないのですか。だから、あなたがたも賞を手に入れるように走りなさい。ところで、すべての競技者は何事にも節制します。彼らは朽ちる冠のためにそうするのですが、わたしたちは朽ちない冠のためにそうするのです。」(1コリント9,24~25)

トリノの競技や自然の姿をテレビで見ながら、その町で魂の救いを求めて、働き続けたドン・ボスコを思い起こしていただきたいと思います。

主任司祭 小坂正一郎
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