復活されたイエスさまは、何回も弟子たちや、女性たちに、そして人々にお現れになりました。復活されたイエスさまですから、御受難の時のあの打ちひしがれた姿から、人々の度肝をぬくような素晴らしく光り輝く姿でお現れになってしかるべきだと思います。少なくとも私がイエス様だったらそのようにしたと思います。しかし復活されたイエスさまは、決してそうはされなかったのです。
マリア・マグダレナに現れた復活の日の早朝でした。彼女はイエスさまのお墓が空っぽで御遺体が盗まれたと思い泣いていました。彼女は、後ろに立たれたイエス様を見ても「婦人よ、何故泣いているのか。誰を探しているのか」と声を掛けられてもイエス様だとは気付かなかったのです。「マリア!!」と言われて、初めて気が付きます。マリアは深くイエス様を尊敬し愛していました。それは、十字架のもとに最後までたたずんでその死を見届け、復活の早朝は、イエス様の御遺体を香料で手厚く被うため急いでお墓に向かったことからも理解できます。ですから、彼女がイエス様にお会いし、声を掛けられても、イエス様だと気付かなかったのは、彼女が鈍感で薄情な女だったからではありません。
今日の福音の「エマオの旅人」の場合も同じです。復活の朝、女たちからだけでなく、ペトロ・ヨハネからも「主は復活された」というメッセ-ジを聞いたのに、エルサレムから12,3キロ離れたエマオまで、言わば脱走していたのです。途中からイエス様は仲間になり、「モ―セから初めて全ての預言者がメシアについての予言」を聖書全体を通して当のイエス様から解説してもらっているのに、二人はイエス様だとは気付かないのです。
その他、「奇跡の大漁」の時も、御昇天のためにガリラヤの山に登った時も「しかし、疑うものもいた。」(.ルカ23:18)のです。復活されたイエス様は、イエス様とは見分けることもできないごく普通の人だったということになります。
私たちも、復活されたイエス様にお会いしたければ、このごく普通の人、日常的な生活の中で、何の変哲もない出来事の中で「イエス様を見つけられなければ」いつまでもイエス様にお会いできないのです。