主はまことに復活されました アレルヤ アレルヤ !

アイキャッチ用 小坂神父の今週の糧

花吹雪を浴びて
夕食のあと、ロザリオを唱えながら少し歩く習慣がついています。今年の桜は、何となく色あせていてどうも見栄えがよくないように感じました。多分秋から冬に、そして春にと天候がよくなかったからなのかと、独り合点をしたり。自分の体がどうも本調子でないから、花もそのように見えるのかなと考えたりする日々でした。ところが所用で出かけたある日、春の陽光に映えて飛び散る花吹雪の見事さ、その色合いの美しさに暫し見とれてしまいました。
夜桜とか、花見の宴とかよく言い習わしているけれど、やはり春の日差しに映えながら散り行く桜こそ本当の色合いなのだとつくづく感じながら、物事は一面だけの見方ではいけないなと反省させられた春のひと時でした。

聖地巡礼の思い出
何年も前になりますが、思い出の多い、忘れ得ない聖地巡礼に参加したことがあります。参加したメンバーは十数人だけで皆が成人、しかもその半数以上が司祭というまとまったグループでした。ガイド役に当たられたのはミラノ教区の聖地巡礼に関してベテランの神父様で、キリストゆかりの地を巡りながら、詳しい説明や解説を加え、それがいつの間にか祈りに導きいれてくれるやり方は実に見事なもので、心の底から満足できる黙想と巡礼の旅でした。

エルサレムでは、主の晩餐の高間、ゲッセマネのオリーブの森、血の汗を流された岩、鞭打たれ茨の冠を受けた地下室、十字架を担って進まれたカルワリオへの道など主のご苦難の場面を一つひとつたどりながらの黙想でした。そして聖墳墓教会にたどり着きました。十字架の立てられた場所、苦しみのマリアに抱かれたところ、そしておん葬りの場所を祈りながら巡りました。

翌朝、聖墳墓教会でごミサを捧げることになりました。それは正しくイエスが葬られた洞窟のその場所が祭壇になっていました。「ドン・コサカ。あなたは東洋の果てから来たのだから、あなたがミサを司式しなさい」と言われ、その聖なる場所でミサを捧げる恩典に浴しました。狭いので私と介添えの神父様の二人しか中に入れません。他の巡礼者は、洞窟の外から覗き込むようにしてミサに参加しています。ゆっくり辺りを見回すと、昨日見たようなランプやその他の装飾品や布飾りなどがいっさい取り除かれ、大きな一枚板の大理石の上にコルポラーレ(聖体布)ひとつ置いただけの祭壇でした。
しかも、そこで行なわれたミサは「復活の主日」の典礼でした。聖墳墓、おん葬りという考えを抱きながらそこに来ていたわたしは、始めてこの神秘に気づかされました。「主が葬られたその場所が、復活された場所なのだ。」今までいつも「聖墳墓教会」と言って、おん葬りの面だけ考えていたのですが、それは「復活教会」なのです。発想の転換と言うことの重大さを、主の復活の場で思い知らされた喜びをいつも思い出しています。

信仰の原点
「過ぎ越しの神秘には二つの局面があります。一つは、キリストがその死によってわたしたちを罪から解放されること。もう一つは、その復活によってわたしたちに新しい命に至る道を開かれたことです。」(カトリック教会のカテキズム654)この宣言を肯定する祈りがあります。「わたしたちの過越キリストは、ご自分の死をもって、わたしたちの死を打ち砕き、復活をもって、わたしたちに命をお与えになりました。」(ミサ聖祭の復活の叙唱1)これこそ、四旬節のうちにわたしたちが黙想してきた神秘であり、キリスト者としての信仰の原点であります。
パウロはコリントの教会の信徒に向けて強調しています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(1コリント15,14)信仰に入って日の浅かった信徒に向けて再び強く呼びかけます。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(1コリント15、7~19)
わたしたちの人生は、キリストと共なる歩みであり、単に死に向かっての歩みではなく、その先にあるキリストと共なる輝かしい復活を目指して、キリストと歩むことなのです。その信仰で物事を見ていくとき、今まで気づかなかったことや、見落としていたこと、見誤っていたことがより鮮明に見通していけるようになるでしょう。
大きな喜びのうちに声を上げたいと思います。「主は、まことに復活されました。 アレルヤ! アレルヤ!」

復活の信仰と喜びのうちに、新しい任務に参ります。短い期間でしたが、皆様の力強いご協力に感謝します。

主任司祭 小坂正一郎

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