聖書の中で、聖家族について書かれていることで私が興味を持つのは、イエス様が12歳の時にエルサレムの神殿でご両親と別れ別れになったエピソードです。
ある神父様は「公教要理」の時、小学校低学年の子供たちから質問されたそうです。「神父様、イエス様もマリアとヨゼフ様の言うことを聞かなかったのではないのですか?」 ベテランの神父様は答えました。「そうです。だからよく御覧なさい。こうなったのですよ!!」と祭壇の上の大きな十字架像を指さしたのでした。こういう説明が良いのかどうか知りませんが……

でも、探し始めて3日目に神殿の境内で発見されたときのマリア様の言葉「あなたは、どうしてこんなことをしましたか。お父様もわたくしも心配して、あなたを探していたのですよ」(ルカ2:48)には、マリア様のお気持ちがよくあらわれているように思います。イエス様にようやく再会し、ホットした時でも「お父様もわたくしも心配して」とヨゼフ様を立てているご発言です。家長としてのヨゼフ様をいつも優先させているナザレの生活ぶりをほうふつとさせます。そしてイエス様のお答え「どうして、わたくしをお探しになったのですか。私が父の家にいるのは当たり前でしょう。ご存知なかったのですか」の意味が分からなかったと素直に認めているのです。

私は「聖家族」の生活ぶりをつぎのように勝手に想像します。聖家族の各人は、それぞれに自分の意見は意見としてはっきりと相手に伝え、分からないところは、分からないところとして無理やりに相手のこころの中まで入ろうとしない「思いやりのある家族」だったのではないでしょうか。
ルカは次のようにまとめます。「それからイエスは、両親とともにナザレに下って行き2人に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた。イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人とに愛された」と。
親子3人が相手の立場を尊重し、神からも人からも「愛される存在」であったと想像することができます。家族だけのエゴではなく、社会にも開かれた聖家族だったのです。

田中次生神父
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