道と言えば、すぐ思い出すのは高村光太郎の「道程」です。
「僕の前には道はない
僕の後ろには道は出来る……」
道は聖書の世界では「人間の生き方、行為、生活態度ひいては人生そのものを表している」と岩波のキリスト教辞典は記しますが、何も聖書の世界だけではないでしょう。「成語林」ではたとえば「道を得る者は助け多く、道を失う者は助け寡なし」のように、「人生の道」に使われています。

イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。「父のもとへ移るご自分の時が来たのを悟り、この世にいる弟子たちを愛して、終わりまで愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)イエスさまの、最後の晩餐でのお言葉です。私はいつも思うのですが、甲子園でピンチヒッターに贈る監督さんのひと言(三年間の教えのすべてを凝縮させた)にも相当する重みのある言葉です。

日本人は、昔から「道」を大切にしました。「華道・香道・茶道・書道・剣道・柔道・弓道・合気道」と沢山あります。しかしどの道であっても、「良き師との出会い」は道に精進するためにどうしても必要です。私も大阪星光で5年ほど弓道部の顧問をしましたが、夏の新人戦で「団体三位・個人三位」が最高の戦績でした。私の恩師の増井大阪府連副会長がボランティアで指導して下さることになり、3年前は大阪府代表で春の選抜に出てきました。指導者の力の差と言えるでしょう。少し脱線しました。

遊牧民族であるユダヤ人にとって「道」はまさに「生命線」であるということが出来ます。砂漠の中で道を見失ったら「死」を意味したのです。道のある所には「オアシス・命の水」があるからです。そう言えば、ヨハネはサマリアの女性との会話の中で「私が与える水を飲む人は、永遠に乾くことがない。私が与える水は、その人の中で湧き出て、永遠の命にいたる水の泉となるであろう」と言われたイエスさまの言葉を大切に記録しています。そうイエスさまの道は「命にいたる道」なのです。

主任司祭 田中次生
LINEで送る