中国の哲学用語として「道」は重要な位置をしめています。それが中国の儒教、老荘思想、中国仏教をとおして日本に伝わりました。日本人はその思想に痛く共鳴し、受け容れました。私たちもどこでどう勉強したのかいろいろと憶えています。
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」論語
「道は二つ、仁と不尽のみ」孔子の言葉
「仁は人の心なり。義は人の路なり。」

また、詩人の坂村真民にはこんな詩があります。
「道は数限りなくあれど、わが辿る道はただ一つのみ。
花は数限りなくあれど、わが願う花はただ一つのみ。
わが道を行かしたまえ わが花を咲かしたまえ。」

いずれにしても亀井勝一郎が指摘するように、「道の厳しさ」を感じます。人間として求めるものを強く意識すると、例えば師弟関係であっても、その間の好悪などではなくて「共通の道「を求めるものとして、道からくる厳しさを、避けて通ることは出来ないのです。

と同時に、使徒パウロがコリント書の13章の「愛の賛歌」で教えるように、キリスト教徒の「最高の道である愛」を抜きには出来ないでしょう。道を求める以上は厳しさがあるが、厳しさが厳しさだけだったら、多くの場合挫折しかありません。しかし「愛を込めた厳しさ」が人間を大きく成長させ発展させることは、私たちみんなが経験していることでしょう。

☆親子の会話。
パパ「○○ちゃん、もう大きいのだから、自分の荷物は自分で持ちなさい。」
子供「まかしときなよパパ! その代わりおんぶしてネ!!」

☆イエス様の言葉「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

主任司祭 田中次生
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