聖フランシスコ・サレジオ(No.4)

アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

1846年31歳のドン・ボスコは、トリノ市のバルドッコにあるピナルディの小屋を借り受けることができた。それまでの5年間は定住のオラトリオがなく、日曜ごとに使える場所・広場を探すのに苦労していた。10~20人規模があっという間に100人単位のオラトリオになり、少年たちの行く先々から苦情が市長の元に寄せられた。市民たちが少年たちの嬌声・掛声・歓声に耐えられなかったからである。一度オラトリオの集合場所として使われると市民の反対が強くて、二度と使うことができなかったのが今ようやく解決した。

次にドン・ボスコが努力したのは、協力者の育成だった。500~700と増えていく子供たちを独りで見ることは当然できない相談だった。これはという少年たちには声を掛け、勉強の特訓をし、神学校に入学させても、多くの少年たちは、最後には教区の神学校に逃げたりで、5、6年と続けて失敗していた。ようやく1852年頃その努力が実り、ルワ(第二代総会長)、ロケッティ、カリエロ(後の枢機卿)たちがオラトリオの中から育った。ドン・ボスコは彼らを毎週集め指導した。そして1854年1月26日、聖フランシスコ・サレジオの9日間の準備の間に、正式なグループとして名前を持つことになった。ルワ神学生は書いている。「我々は、ドン・ボスコの部屋に集まった。カリエロ、ロケッティ、アルティリア、そして私が、ドン・ボスコを取り囲んだ。ドン・ボスコは、人々への愛徳の実践の訓練期を今から始めようと提案した。我々は賛成した。固い約束をした。この約束が、のちに、誓願となるものであることを私は知っていた。この意義ある夜以来、我々の使徒的事業を受け継ぐ者に“サレジアニ”の名が付けられることになった。」と。

オフレ著「ドン・ボスコの生涯」より

(Salesiani=サレジオの人たち)

ドン・ボスコは、司祭として・教育者として自分自身のための目標・モデルとしての「聖フランシスコ・サレジオ」を共同者全員のための目標・モデルとしたのでした。

主任司祭 田中次生

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