聖書の中に、イエス様が話された譬え話がたくさんあります。その中ですぐ分かるものもありますが、分かりにくい譬えもあります。
ルカ15章に「憐れみの三つの譬え」があります。見失った羊・なくした銀貨・放蕩息子です。
その中で最初の「見失った羊」が一番分かりにくいでしょう。「あなたがたのうち百頭の羊を持っている者があるとする。そのうちの一頭を見失ったら、九十九頭を荒れ野に残して、見失ったその一頭を見つけ出すまで、跡をたどっていくのではないだろうか」と語られます。放蕩息子の場合は兄と比較して弟の帰還を喜ぶ父親の姿がなんとなく……と思ったりします。
たとえ話が分かりにくいのは、多くの場合私たちは「自分自身を良いほうに」おいて考えてしまうからです。自分はキチンと教会生活をしているから当然「九十九頭の一頭」だし「お兄さん」だと考えると、一生懸命やっているのに絶対に不公平だと思ってしまいます。お兄さんの不平不満に共鳴し、文句を言いたくなります。
でも、イエス様のお考えでは、人間は誰しも神様の前では罪びとだし、いつでも「放蕩息子」になる可能性があるので、自分を放蕩息子の立場においてこの譬え話を考えれば、この話の中の「やさしいお父さん=神様」をもっとよく理解できるし、そんなお父さんを持っている喜びを嬉しく思うことができるのです。100頭の羊の場合もそうです。荒れ野に残された九十九頭の中に自分を入れて考えれば、わびしく切ない気持ちになります。
でも「見失った羊」に自分自身をおいて見ると、羊飼いの優しさがぐっと迫ってきます。私たちの天のお父様は、私たちがどんなにお父様である神様を忘れてしまっている時でもいつも「見失ったその一頭を見つけ出すまで、跡をたどって下さる」神様なのです。善き牧者は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ10:4)からです。100と言う「数」が大切なら、羊たちの出産期を待てば良いわけですが、「名前のある」個人的なつながりの羊の場合は、「代替不可能」な大切な存在になっているのです。神様は私たち一人一人をそのような「代替不可能な○○さん」と考えられています。