シリーズ「天国」のしめとして「煉獄」を取り上げます。これも最近教会で「煉獄」についての話を聞かないと言われているからです。志村辰弥神父は『易しい教理問答』で次のようにまとめています。「煉獄とは、人がこの世で果たしえなかった罪の償いを、果たし終えるまで、苦しみを受けるところです」「煉獄に行くのは、成聖の恩恵を持っていても、小罪があるか、あるいは罪の償いを果たし終えないで死んだ人です」と。新約聖書の根拠として 次の2箇所が挙げられます。「人の子をあしざまに言う者はゆるされる。しかし、聖霊をあしざまに言う者は、この世でも後の世でもゆるされない。」(マタイ12:32)
「『かの裁きの日』は火とともに現れ、その火は一人ひとりの仕事がどのようなものであるかを吟味するからです。……彼自身は火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます。「(Iコリント3:11~15)そして旧約聖書からはマカバイがBC2世紀セレウコス朝シリアに対して、戦いを挑んだ時戦死したユダヤ人を葬る時彼らが、律法で禁じられているヤムニアの偶像の守り札を身につけていたことを発見し「一同は隠れたことを明らかにされる正しい裁き主のみ業を讃えながら、この罪が跡形もなく拭い去られることを、ひたすら祈願した」(IIマカバイ12:38~)のち、銀二千ドラクメを贖罪の捧げ物のためにエルサレムへ送ったのです。聖書は次のように評価します。「その思いはまことに宗教的、敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪からとかれるよう彼らのための贖いのいけにえを捧げたのである」と。
聖書の言葉から次のことを考えられます。最初は、死後いけにえ等によって「罪から解かれる」ことがあること。次に「後の世で許される罪」もあること。そして最後に、そのためには何らかの「火の中を潜り抜ける」必要があること。このことを総合して「煉獄」が考えられます。彼らは成聖の恩恵を持っているので、救われます。しかし、清めの火の中で苦しんでいます。
教会の教えの中で「聖徒の交わり」があります。「聖徒の交わりとは、イエス・キリストを頭に戴いて一致している人びとが、互いに手柄を通じて、助け合うこと」で、天国の聖徒、この世の信徒、煉獄の人たちがその中に含まれています。昔から火曜日が「煉獄の霊魂」を思い出しお祈りする日とされていました。私たちが彼らのために、「ミサを捧げ、祈り、善業・犠牲・免償を捧げ」て、一日も早く天国の幸せに入ることが出来るように助けよう、とよく言われました。私たちのお祈りで助けられた人たちは、天国から私たちのことを一生懸命支援して下さることでしょう。天国にたくさんのお友だちを作りたいですネ!!