ヨハネの聖書を読みながら、聖書の“時”には、二種類あることを勉強しました。ギリシャ語で言えば、クロノスとカイロスです。クロノスは通常の“時間”であり、カイロスは神が介入される宗教上重要な時を表わしています。尻枝正行神父は、その著「永遠の今を生きる」の中で「神の時=神は一瞬にして何事をも成就おできになるのに、時の熟れるのをまたれます。私達人間は、この神の時を先取りしてはならないのです」と私達にすすめます。「約束のメシアが出現するのに3000年、そのメシアが人間として大成するのに30年、預言者として使命を果たすのに3年、司祭としての贖いの業を完うするのに3日をおかけになります」と説明しています。

私達人間はせっかちですぐに良い結果を出そうとするのに対して、神様は、時が熟するのをじっくりと待たれます。イエス様のご誕生の時もそうです。聖霊による御懐妊なら、10ヶ月もマリアさまの中にいる必要もないし、ベトレヘムへの長旅をうまく避ければ「馬小屋の中で」飼い葉桶を揺りかご代わりに使う“惨めさ”を経験しないでも済んだはずです。

マルコによると人々の前にたって教え始められたイエスさまの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」なのです。父なる神から委ねられた救いの計画の時をじっと待たれていたイエス様がそこにいます。30年間、聖家族のなかでの私生活では“大工の子”としてじっくりと腕を磨きながら時が満ちるのをじっと待たれたのでした。

かく成長されたイエスさまは“待つ”ことで、失敗する弟子達を気長にまたれます。ペトロの否みに対しても「主は振り向いて、ペトロをみつめられた」のです。そしてペトロは外に出て激しく泣きます。十字架上では、自分の苦しみはさておき、となりの犯罪人の回心をじっとまたれました。 そのイエス様はいまでも、私達をじっと待っておられます。それは教会と御聖櫃の中で、パンの形態の下で私達を待っておられます。待降節です。イエス様が私達を待っておられる季節でもあります。

主任司祭 田中次生
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