先日、ある若い夫婦から電話があり、生まれて一ヶ月ちょっとの「赤ちゃん」を見せに来ることになりました。前に何かに書いたことですが、私は赤ちゃんが苦手です。私が抱くと赤ちゃんは皆泣くのです。今まで、私が抱いて泣かなかった子はたったの一人です。しかしこれはどう考えてもあの田中神父様には、何の罪もないので、むしろこういうべきなのでしょう。「赤ちゃんにとって、“田中神父”は、どうやら苦手らしい」と。

いよいよ赤ちゃんが到着しました。私は早速カメラマンになり、「あっち向いて!こっち向いて!」と随分写真を撮りました。私が抱く前に少しは両親以外の他の人から抱かれる体験をして貰おうと思い、尻枝神父様にも抱っこして貰いました。赤ちゃんは別に大騒ぎしないで、泰然自若としているので、赤ちゃんの機嫌の良い今のうちだと、私が抱きました。そうしたら、一瞬にして、火が付いたように大きな声で泣きはじめたのです。私はあわてて、お母さんに赤ちゃんを返しながら言いました。「これは“親のしつけが悪い”に違いない」と。

マタイ、マルコ、ルカの三福音書は「イエスと幼な子たち」の出会いについて書きます。人々が幼子を連れてきてイエス様に手を触れて頂こうとします。弟子達がたしなめようとしますが、イエス様は、それを押し止めて、一人一人の幼子を抱き「彼らの上に両手を置いて」祝福されたのです。私はこの箇所を読む時、イエス様に抱かれる時に泣いた子はいなかったのだろうか?といつも思います。本当はその時に弟子達に言われたことば、「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることは出来ない」ことを黙想しなければならないのですが……。

イエス様は、小さい頃、近所の子供の子守りをマリア様から頼まれる時、素直に子守りを引き受け、「赤ちゃんを抱く“かたち”」を身につけていらっしゃったのでしょう……

主任司祭 田中次生
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