神学生時代、太宰治について卒論を書いた先輩がいて、桜桃忌のこと、太宰と聖書のことなどあれこれ聞くことができた。太宰の作品には聖書の引用が多く、詩編1回、申命記2回、マタイ12回、マルコ1回、ヨハネ1回、使徒行伝1回が引用されているという。
太宰の短編に『トカトントン』という作品がある。主人公は終戦の放送を聞いてから、何をしても虚しくなり、作家に質問をします。仕事をしても遊んでいても、恋をしていても、“トカトントン”という音がしてすべてがむなしくなる、どうしたらいいか。作家はマタイ10章28節を引用して、「神を恐れよ」と返事をおくります。質問をしているのも太宰で、答えているのも太宰なのです。しかし、太宰は神を信じることができたかというと、そこに至ることはできませんでした。
大塚野百合氏は「太宰は自己を責める神を発見したが、自己を許す神を発見しなかった」と解説しています。清水氾氏は太宰の詩編121編の引用に関して次のように指摘しています。
「太宰は『我、山に向かって目をあげ、我が助けいずこより来たるや』の嘆きに共鳴した。しかし、それに続く『我が助けは天と地を造られたもうた主より来る』を信じることができなかった。太宰は残念ながら詩編121編1節で終わってしまった。マタイも10章28節で終わってしまって、その後の29節、30節を読んでいないのです」と。
太宰の例でも明らかなように、聖書の言葉は、聖書全体の救済史の流れの中で読むべきで、コンテキストの中で理解することが求められます。聖書は自分の主張の権威つけのために利用するものではないのです。
今年5月から始まる鷺沼教会最初の「聖書百週間」は、イスラエルの民の歩調に合わせて、連続ドラマのように救いの歴史がどのように発展したかを通読していくものです。2009年1月号の「カトリック生活」誌のアンケートによると、“全聖書を通読したことがありますか?”という問いに、あると答えた人はプロテスタントの方が57%に対して、カトリックは26%とかなりの差がみられます。
全聖書未通読の方、勇気を出して、「聖書百週間」の説明会(4月23日14時から)にいらしてみませんか。