2014年6月23日、河合師が68年の生涯を終えて、父なる神様のもとに召された。
あまりにも早い帰天。少なくともあと10年、教育者として、学校経営のプロとして、日本のミッションスクールのために活躍して欲しい逸材だった。師のご冥福を心から祈りたい。
河合師と初めて会ったのは、東京オリンピックが開催された1964年春だった。大阪星光学院の高校2年を終えて、高3から宮崎日向学院に転校してサレジオ会志願院で一緒に生活をすることになった。学年は河合師が1年先輩、“司祭職を目指すんだったら、早くラテン語を学んだほうがいいよ”という演劇部顧問・日本人修道士のアドバイスをうけての思い切った決断だったという。師は大阪府羽曳野市出身。地元の小学校を卒業後、特待生として大阪星光学院中学校に入学。担任は数学教諭でもあった都成日出人師だった。都成師は後に星光学院を現在の大阪の私学の雄に押し上げた名物校長として知られている。都成師を初めとするサレジオ会士の薫陶を受けた河合少年は16歳で受洗。阿倍野教会のレジオ・マリエの青年部に所属。やがて司祭職を志すようになった。星光時代の河合師の先輩には同じ演劇部員であった藤川長喜師(元管区長、現調布教会主任司祭)、同級生には鷺沼教会所属の永田和一氏がおられた。
高校2年修了時での大阪から宮崎への転校はきっと大きな犠牲だったに違いない。長髪から坊主刈り、厳しい志願院の規則。また、当時の志願院の食事は実に粗末なものだった。「宮崎での3年間の志願院時代があったから、今どんな食事も御馳走に思える。あの体験は今想えば有難かった」とよく言っていた。
河合師は大学の第2外国語でスペイン語を選択した、上智の哲学科の卒論はスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットを選んだ。
「常に自分に課題を課していく人が思考的貴族だ。優れた人間とは自分自身に多くを課す者のことである」というオルテガの言葉は、生涯、学校教育を通してひたすら青少年とその家族に向き合った師の生き方に相応しい言葉ではないだろうか。