「祈れないときはどうすればいいのですか」という質問を受けたことがあります。皆様なら、どうお答えになりますか。
『YOUCAT』という本があります。ドイツ語圏のカトリック司教団が青少年向けカテキズモとして編纂したものです。その508項に次のような Q and A があります。
Q 祈りに何も感じないとか、祈るのにうんざりするまでになったら、どうなるの?
A 祈ったことのある人ならだれでも、祈りながら気が散ることや、心のむなしさや味気なさを感じたり、それどころか祈りが嫌になることもあるね。だから、誠実に続けることは、それ自体でもう祈りなんだ。
補足として、聖フィリッポ・ネリの言葉が引用されています。
「霊的な乾燥にもっともよい薬は、神と諸聖人のみ前で、物乞いのようになること。そしてある聖人から別の聖人へと、物乞いのように霊的な施しを請い求めるのだ。路上で施しを求める人と同じしつこさをもって」。
ネリの勧めにしたがって、聖人たちの言葉を引用してみましょう。
- 〇リジューの聖テレジア(1873-1897)
- 「念禱や聖体拝領後の感謝のあいだに居眠りをすること(もう7年も前から)も、悲しまなければならないでしょう。ところが私は、悲しみません。小さい子どもは眠っていても、目覚めていても、同じように親の気にいると思います」。
- 〇アビラの聖テレジア(1515-1582)
- 「わたしたちが祈れないときにも、祈れないわたしたちのために神は祈っていてくださる。わたしたちが神を愛せないときにも、神は私たちを愛していてくださる。私たちが隣人を自分自身のように愛せなくても、その愛せないわたし自身も、わたしの隣人も、神はご自分の独り子のように愛をもって包んでくださる」。
- 〇ジョルジョ・ベルナノス(1888-1948 フランスの作家)
- 「祈りたいという願いは、それ自体もう祈りである」
- 〇ドン・ボスコ(1815 ~1888)
- 「社会に出ても、寝る前の三つのアヴェ・マリアは忘れないように」
主任司祭 松尾 貢