東京神学大学教授であった北森嘉蔵氏の著書に『神の痛みの神学』があります。初版発行は第2次世界大戦後すぐの1946年、日本人の手になる独創的な神学書として知られています。

北森氏はその本の中で、
<十字架上のイエスの苦しみというものは、もちろん魂の苦しみもあったけれども、何よりもあの釘によって貫かれた肉体の痛みというものをある程度キリスト者は実感してみなければ、キリストの恵みというものは分からない>
と指摘しています。

『ローマ・ミサ典礼書の総則』308項にこう書かれています。
「祭壇上または祭壇の近くに、キリストの姿のついた十字架を置き、会衆からよく見えるようにする。こうした十字架は、信者の心に救いをもたらす主の受難を思い起こさせるので、典礼祭儀以外のときも祭壇の近くに置いたままにしておくことが望ましい」。
聖堂正面におく十字架は教会によって異なります。鷺沼のように磔刑のキリスト像を置く伝統的な教会もありますが、非キリスト者に暗鬱な印象を与えたくないと、イエス像は受難ではなく復活のイメージになっている教会が増えてきています。

「死と復活」の出来事といっても、弟子たちがイエスの復活を目撃したわけではありません。復活したイエスとの出会いを体験したのです。十字架上で亡くなったイエスが、今ここに、自分たちと共にいるとわかったのです。つまり、イエスの復活は五感では捉え難い信仰の体験です。それを絵や像にするのはかなり無理があります。穏やかに微笑んでいるというだけでは、〈死んで、そして復活した〉イエス像とは言えません。

一方、イエスの受難と死は五感で捉えることのできる出来事でした。絵や像に描けるものです。目の前に置き、黙想できる対象です。また、見る目のある者にとっては、イエスの死の中に復活はすでに含まれています。イエスは息を引き取る時、「成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言われました。その意味でも、聖堂の正面に磔刑の十字架像が掲げられるのは相応しいと言えます。

上記の観点から考えても、十字架の道行は意義深い信心業といえるのではないでしょうか。

聖金曜日にコロッセオで十字架の道行をなさる教皇様に倣って、この四旬節、あなたも磔刑のイエス像を見つめながら、十字架の道行をなさってみませんか。

主任司祭 松尾 貢
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