「神さま。いつもみんなを守ってくださってありがとうございます。(ペット名)も、生まれてから死ぬまで、ずっと神さまにやさしくしていただきました。たくさん遊んだ( )とお別れすることになって、悲しいです。でも( )はやさしい神さまのところへ行きました。天国でも( )をかわいがってください。神さま、( )がいてくれて、ほんとうにうれしかったです。私たちはこれからも、動物をだいじにします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」。

上記は、2007年一麦出版社刊行の『神の民の礼拝』に収められている、あるプロテスタント教会の「動物の埋葬の祈り」の中の、「幼児とともに祈るために」と題された祈りです。

カトリック教会ではどうでしょうか。中央協議会刊行の『カトリック儀式書・葬儀』には、皆無です。札幌教区典礼委員会編『祝福の祈り』には、家畜の祝福の祈りはあっても葬儀の祈りはありません。<動物には魂がない>という旧来の神学では、動物の葬儀という発想は皆無でした。

昨年12月、ニューヨークタイムズ紙に次のような記事が載ったそうです。

「ペットも天国に! 教皇フランシスコは愛犬をなくした少年を慰めようと“キリストの永遠性において、いつかまた動物たちに会えるでしょう。天国は神が創造したすべての生き物に開かれています”と発言」。後日、同紙は、実際の発言内容は「聖書の教えによれば、この素敵な創造の恩恵は私たちの身の回りのものすべてに及びます」だったと訂正したそうです。

しかし、アシジのフランシスコの<小鳥に説教>や<狼への説得>などのエピソードを考えれば、次のような見解も案外うなずけそうです。

神言会の森山勝文師は、『福音宣教』(2009年6月号)で、ローマ書8章18-23節を引用して、「ペットによって励まされ、神から与えられた人生を一所懸命に生きた人には、ペットも永遠の生命にあずかると考えることはできないだろうか」と述べています。

また、故・佐久間彪師は『福音宣教』(2010年7月号)でペットの天国行きを主張して「いわゆる天国とは、神の支配の状態であって、神の支配とはパウロの表現によれば、『万物が神から出、この神に帰って行く』(1コリ8:6)ので、『神が万物において万物となられる』(同15:28)ことを意味しているのである」と書いておられます。

主任司祭 松尾 貢
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