「子どもの日」を前にイエス様にとっての子どもを考えてみましょう。
マルコ10章13~16節では、人々が子どもたちを連れてきます。イエス様は子どもたちを抱き上げて、手をおいて祝福します。この場面で、イエスは憤ったとあります。何故、憤られたのでしょう。それは子どもを連れてきた人たちを弟子たちが叱ったからです。イエス様はそれを見て憤って言われます。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。イエス様が<憤る>箇所は福音書中ここだけなのです。
勿論、エルザレム神殿の商売人や両替商の人たちに対する「私の家は祈りの家。それを強盗の巣にしてしまった」という箇所ではイエス様の怒った顔が容易に連想できますが、憤るという言葉は使われていません。
フランシスコ教皇の今年3月18日の一般謁見の子どもたちについてのお話の一部を紹介しましょう。
- 子どもは素晴らしいことを思い起こさせてくれます。それは、私たちはいつまでも子どもだということです。例え大人や高齢者、両親、責任者になっても、その根底には子どものアイデンティティが残っています。私たちは皆、子どもです。このことは、私たちは自分でいのちを生みだしたのではなく、いのちを受けのだという事実を示しています。私たちはそのことをしばしば忘れ、自分が自らの存在の主人であるかのように感じてしまいます。そうではありません。私たちは根本的に誰かに頼っているものです。
- 子どもたちにも原罪があり、自分中心になるときがあります。しかし彼らは純粋で率直な心を持っています。子どもたちは外交官のようではありません。感じたままに話します。私たち大人が学んでしまった二枚舌というわざをまだ知らないのです。
- 子どもたちは笑ったり泣いたりすることもできます。私がキスしようと抱き上げると、笑ってくれます。又、私が白い服を着ているので、注射をしに来た医者だと思い、泣きだす子もいます。私たち大人は、笑ったり泣いたりするのを「我慢して」、できなくなってしまいます。そして、多くの場合、張り付いたような笑顔、生気のない笑顔、道化師のような作り笑いになってしまうのです。
主任司祭 松尾 貢