ウンベルト・カバリエレ神父
サレジオ会横浜支部所属
聖セシリア女子短期大学チャプレン
早春の候、鷺沼教会の皆様にはますますご清栄のことと、主イエスのご復活お慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
このたび、私は、主任神父様の願いに応えて、教会の機関紙「コムニオ」4月号に自己紹介の文書を書くことになりました。この老大木に復活があるか?
それは不思議と思うが。
さて、父ジュリオは12人兄弟の南イタリア、バリ市郊外生まれ。1908年リビア戦争の後、20歳で5人兄弟をつれてアルゼンチン首都ブエノスアイレスに移民。母エレナは、ミラノ生まれ。7歳の時、全家族5人が移民。皆、ゼロから仕事を求めて渡った。父の兄フランシスコがロシア移民者の店に身を寄せて、戸締り、留守番、売り子で働いて、階段下の窓のない小部屋に小型ベッドしか入らないところで90歳まで住んでいた。イタリア人にこんな根気ある、おとなしい人がいたのか?
信じられません……
父は、最初から映画館でボーイとして小銭を稼いでいたが収入が足りず、ピサ工場で働きました。数年たったら、近くに住んでいた母方のお爺さんが病死して、4人家族を養うために、おばあちゃんは道端で野菜、果物などを売り始めました。おばあちゃんが毎朝早く起きて、小学校卒の3人の子供たちに手伝ってもらって市場へ。仕入れです。このありさまを見た父が、おばあちゃんに手を貸すことにした。母は16でした。父が20代、エネルギーイケメンだった。とにかく、重い果物の箱の「ボランティア運び屋」となった。ついに、父がおばあちゃんに「お嬢さんと結婚したい」と願いにあがった。おばあちゃんは見込んだとおりなのか、口が一つ減るからなのか、即座に承知しました!…しかし、母は美人だったので、父の本当の動機がお手伝いか美人狙いか不明である。
こうして、一文無し青年と一文無し娘が、第一世界戦争後、第二世界戦争前の経済危機時代に結ばれました。デフレの始まりである。にもかかわらず、母は16で結婚、17に一児(男子)、18に二児(男子)、21に三児が生まれてくるんだ……
当然、母も父も憧れの娘だと、大きな期待と顔と口に喜びを隠すことができませんでした様です…やがて、月は満ちて、三児が生まれた瞬間、母が「お前も男か??」……と叫んだ!それを聞いたとき、僕は、パラシュートのように肺を開き、オボエで出す音442Hz 音が「ラ」で長く泣いた—————————-
ウンベルトの誕生でした。