先日、トラピストの高橋重幸師著『神愛賛歌』という小冊子を読む機会がありました。パウロのコリント人への第1の手紙13章の“愛の賛歌”の解説書で、「愛はすべてを希望する」の箇所でした。その小冊子の“希望の復権”という見出しの項の一部をご紹介しましょう。
「戦前、『カトリック大辞典』という全五巻の厚い辞典が富山房という書店から刊行されました。ところがその辞典には「望徳」という独立した項目はないのです。カトリック神学の中で望徳がどれほど無視されてきたかを示す実例です」。
高橋師は、希望の聖書的根拠として、神は「希望の神」と呼ばれており(ローマ15:13)、アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた」(ローマ4:18)を示しています。
研究社刊行の『新カトリック大事典』(1998年初版)をひも解くと、「望徳」という項はありませんが、「希望」に関しては6ページにわたって、詳細な記述があります。二点、ピックアップしてみます。
- 第二バチカン公会議(1962~65)の16の公文書の中で最も重要な二つの憲章は、キリスト教的希望の意義を神の民である教会が現代世界と関わりをもつ根底に据えています。「諸国民の光」(Lumen Gentium)と「現代人の喜びと希望」(Gaudium et spes)という『教会憲章』と『現代世界憲章』のそれぞれの冒頭の言葉は、このことをよく表しています。
- 希望が神学の中で、終末論と歴史との密接な関わりの中で意識され始めたのはモルトマンの『希望の神学』(1964)以後のことです。モルトマンは改革派教会の伝統に立って、希望がキリスト教信仰の核心であることに気付いていました。希望は信仰の原動力であり、歴史を動かしそれに命を与えます。信仰の中にあるものは、希望によって現実の形をとり、新しい誕生への奉仕に励むようになるのです。
カトリックの神学者の中で希望の神学を最初にはっきりと提唱したのはカール・ラーナーでした。信仰者の実存は歴史の中で“絶対的な未来”である神を目指すものである、という力強いメッセージを与えてくれた神学者でした。不条理が蔓延するこの時代こそ、「絶望のあるところに希望を」のフランシスコの平和の祈りに心をこめたいものです。
主任司祭 松尾 貢