​■教皇庁教理省書簡『プラクイト・デオ――キリスト教的な救いのいくつかの観点をめぐる、カトリック司教たちへの書簡』(2018年2月22日)について

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『プラクイト・デオ(神こそが決める)――キリスト教的な救いのいくつかの観点をめぐる、カトリック教会の司教たちへの書簡』(Congregation for the Doctrine of the Faith, Letter Placuit Deo, To the Bishops of the Catholic Church on Certain Aspects of Christian Salvation)を発表した教理省長官ルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール大司教(長年、グレゴリアン大学で恩恵論や三位一体論を講じた教義神学の専門家)は書簡の目的を以下のように述べます。――「信仰の偉大な伝統に沿いつつも教皇フランシスコの教えに言及し、今日の文化が福音的な価値観に向けて変容するために理解が難しいと思われる、キリスト教的な救いのいくつかの観点を明らかにしたい」。

文書の構成は以のとおり;

  1. 序(1項)
  2. 現在の文化状況の変化がキリスト教的な救いの理解に及ぼす影響(2-4項)
  3. 人間による救いへの渇望(5-7項)
  4. キリスト――救い主と救い(8-11項)
  5. 教会における救い――キリストのからだ(12-14項)
  6. 結論――救い主に期待をいだきつつも信仰を分かち合うこと(15項)

書簡は「イエスを唯一普遍の救い主」と宣言するキリスト教信仰を曖昧にさせる文化的な変化として、教皇フランシスコもこれまで指摘した「ネオ・ペラギウス主義」および「ネオ・グノーシス主義」と呼べる二つの傾向を挙げ、次のように説明します。

*いま世界中に蔓延している「ネオ・ペラギウス主義」と呼べる傾向は、あまりにも孤立化した個人を生み出し、「自分の存在が、その奥深いところで神や他者に依存している」ということを認めず、「自分自身を自力で救える」と考えさせます。その立場に立てば「本人の力だけ」に頼るような自力主義に陥ることになり、決して聖霊の息吹を受け容れることのできない「人間的なシステム」のみに頼ることになります。

*そして「ネオ・グノーシス主義」と呼べる傾向は、自分の内に閉じこもる姿勢を助長し、「純粋に内的な救い」だけを求めさせます。「人は、自分を肉体や物質的宇宙から解放できる」と考え、創造主のはからいに気づくことなく、「人間の都合に合わせて変質可能で、意味の無い現実だけを見つめる」ことになります。

*しかし神が私たちに与える救いは「ネオ・ペラギウス主義」が望むような「個人的な自力」だけでは得られません。むしろ「人となられた神の御子を通して生まれ、教会の交わりを形作る関係」を通して得られます。また、キリストが私たちに与える恵みは、ある種の「ネオ・グノーシス主義」が求める「純粋に内的な救い」ではありません。

*キリストの恵みは、キリスト自身が生きた神との具体的な関わりのなかに、私たちを招き入れます。目に見える交わりとしての教会において、私たちは、特に貧しさのなかで苦しむ兄弟姉妹たちを通して、キリストに触れます。そして、秘跡をとおして、キリスト者は常に育まれ、新たにされながら、険しい人生の日々を歩むことができます。

キリスト教の意義を矮小化し、脅かす、現代の傾向に立ち向かう姿勢を明確にしたのが『プラクイト・デオ』です。キリストと私たちとの一致が深まれば深まるほど、御父の救いの計画は明確となります。そして、その一致は、あらゆるキリスト者が「神の子」としての尊厳に目覚めつつ、かけがえのない立場を自覚するために役立ちます。

協力司祭 阿部仲麻呂


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