人を赦すことは至難の業です。聖人でさえ人を赦せず、悩みました。

来月1日に記念日を迎えるリジューの聖テレジアも、どうにも虫が好かない修道院のシスターがいました。どんなに頑張っても、主イエスが求めるようには、シスターを愛することはできませんでした。彼女は恵みを祈り続けました。そしてある日、彼女は、自分には出来ないことでも、彼女の内にやどる主にとっては、いつでも可能なことであることを悟りました。そこで、主に向き直って祈りました。

「主よ、わたしは自分では、このシスターをあなたが愛するようには愛せません。でも、あなたなら、私の内でまた私を通じて彼女を愛せます」と。彼女は、問題をイエスに引き渡したに過ぎません。しかし、彼女はホットしました。彼女は、自分の中に依然として残る“虫が好かない感じ”は無視することにしました。彼女は、イエスがその福音の中で呼びかける完全な愛と赦しをもたらしてくれるはずだと信じました。そして主は、求めに応えてくださったのです。

東方教会のある修道士は著作の中で次のように述べています。

「十字架から救い主の血とともに流れ出す赦しを、私たち自身の内でせき止める権利はない」。私たちがもし誰かを赦すことがあれば、それは私たち>自身が与える赦しではありません。私たちは自分自身がまず受け取った神の赦しを、私たちを通じて私たちを越えて注ぎ出るままに任せ、自分をそのための道具とします。どんな赦しも、それは神から出るものですから。不眠症の人がいます。夜、よく眠れないという人には効果的な方法があります。目>を閉じて、何回“主の祈り”を唱えることができるか数えることです。大概は5回もしないうちに眠ってしまいます。それは“主の祈り”がなにか呪文のような働きをするからではありません。むしろ“主の祈り”の言葉が、私たちを神の臨在の平安の内に引き上げてくれるからです。「主は、その愛する者に眠りを賜う」(詩編127の2)

「人生の大きな悲しみに立ち向かう勇気と、小さな悲しみに耐えを持ちなさい。そして、一日の仕事を終えたら、平安の内に眠りなさい。神は起きていてくださるから」(ヴィクトル・ユーゴー)。

主任司祭 松尾 貢

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