東方キリスト教ではヴィジョンやイメージが徹底して斥けられる(東方キリスト教とは真逆の方向性をとる動向としては、西方キリスト教の女性神秘家たちのヴィジョン重視の立場や、あるいはイスラム教のスーフィズムのイメージ重視の立場がある)。迷いから脱し、本当の祈りを深める際の指標は「常に心が柔和であること」とされる。参考となる文章を引用する。「霊的な道に精進する人を判断するとき、指標となるのは、その人がいかに他者に対して心優しいか、応対が柔和であり、人を落ち着かせる雰囲気を持っているかであろう」(大森正樹『観想の文法と言語――東方キリスト教における神体験の記述と語り』知泉書館、2017年、85頁)。
まさに「柔和」という態度は他者との関わりの極みである。「柔和」を極致とする「観想」(神に信頼して、ただひたすらたたずむ祈りかた)の実践は「技法」と「実生活における他者への配慮」という両面を含む。祈りは単に個人的なもので終わらず、むしろ他者とともに相互補完的に共同体レベルの交わりへと洗練される隣人愛に向かう。それにしても最大の難関は日々の観想における「神との一致」だろう。いみじくも東方教父が気づいたように、「神との一致」に際してファンタシア(特別なヴィジョン――見え姿、現われ、外観、威儀、外的表象、イメージなど)は邪魔になる。神から特別なヴィジョンを得たと思い込む修行者は往々にして自己陶酔や優越感に浸る危険性があるからだ。
それではファンタシアに惑わされずに祈るにはどうすればよいのか。大森はマタイ5・5を参照し「『常に心が柔和である』ことが修行の目標である」(前掲書、85頁)と述べる。東方教父たちも自己中心的な傲慢さから解放されて、心のありようが平静で穏やかに落ち着いていることを重視した。たしかにキリスト自身も「私は柔和で謙遜な者である」(マタイ11・25-30の文脈)と自己規定したことからも明らかなように、観想者の生きかたの極致は「柔和さ」によって実現される。まさに、観想の仕方の究極はキリストの柔和さを理解しつつ生きることに尽きる。こうした方向性は現代の私たちの生き方の力強い指針となる。神学研究を遂行する者にとって、観想の深みに参入することは決して疎かにできない核心だが、同じことが生活現場の実践者においても当てはまる。理論的要素と実践的要素とが呼応して、観想の深みにおいて相互補完的に支えられて圧倒的な霊的果実を生み出すときにこそ、キリストの福音の浸透が可能となる。
相手に対するアガペ(神の慈愛)の示しかたによって、本物かどうか判定できる。謙虚に真実を求めて修練を積み重ねる者は万事に対する誠実な関わり方において、おのずからアガペを実現できる。古代教父たちの発想では、私たちが人間であることそのものにおいてすでに神の子としての資格を備えており、神の似姿へと成熟する可能性を秘めているから、人間は神の慈愛を実現できる。実践的な愛を生きれば、そこにキリストが現存する。
協力司祭 阿部仲麻呂