主イエスの降誕。聖霊によるマリアのみごもり。聖霊の働きが実りをもたらす。ヘリベルト・ミューレンという20世紀ドイツの神学者は『三位一体におけるペルソナとしての聖霊』(1963年)という著書のなかで「私たち」(聖霊なる神の我々)という共同体的な人格の可能性を考察した。親しく生きる者同士の愛情のこもった響き合いが「共同体的な人格」として周囲に影響をおよぼす。
たしかに人は誰かから受け容れられて励ましを受け、今度は自分も誰かを受け容れる気になる。連帯関係が人を成熟させる。私が私であるには、必ず複数の人びととの関わりが必要となる。大勢のあいだでもまれてこそ、人は自分の長所や短所を発見できる。相手とともに生きれば自分らしくなれる。「私たち」という連帯の感触が各自の生きる力を最大限に発揮させる。
ミューレンはヨハネ福音書(14・17-23)を根拠として、御父(我)が御父になるためには御子(汝)とともに生きることが欠かせず、御子が御子になるためにも御父とともに生きることが欠かせず、御父と御子との心もちの深い一致と連帯のためには聖霊(我々)の働きの空気感において活動しなければならないと考えた(御父と御子のあいだのペルソナとしての「我々」としての聖霊)。それぞれのペルソナが自分らしい姿を生きるには関係性のまっただなかで響き合って連帯しないと駄目だ、という神の切実な想いをミューレンが発見した。
「共同体的な位格の関係性(交わり)」に与るキリスト者たちは「共同体的な人格」を生きる。三位一体の神のいのちの構造に招き入れられて生きるときに、人間は神の子どもとしての本来在るべき理想状態を身に覚える。聖ヨハネ・パウロ2世教皇が使徒的勧告『奉献生活』(1996年)で強調した「三位一体の神のいのちの交わりの姿に与って共同生活を営む奉献生活者たち(あらゆるキリスト者たち=司教・司祭・修道者・信徒)」という根本視座もミューレンの発見の延長線上にある。この視座は、社会における一般的な見方としての「法人格」という発想にも結びつく。個人ではなく、法人として共同体的な存在感を発揮して社会を変革する立場は、人が独りでは決して為しえない善を強力に推し進める際のゆるぎない保障となる。フランシスコ教皇も共同で生きることを重視する。
聖霊は活けるペルソナである。ペルソナは「相手のために響ける自分らしさ」である。聖霊は、この私が自分の内側に都合よく吸収できるような所有物などでは決してなく、むしろ私とは同化し得ない独立した相手(絶対他者)である。しかし聖霊は私の心の奥底に潜むいのちの根源でもあり、穏やかな喜びのうちに、きわめて私の心の内面と合致して生きる。聖霊は、親しい相手として、私自身よりも私のことを親身に熟知して関わる神の激しい愛情のエネルギーであり、活ける相手である。聖霊の働きを身に覚えて生きれるように、心から叫ぼう。「創造主なる聖霊よ、来て下さい」と。
協力司祭 阿部仲麻呂