アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

年末の紅白歌合戦で、シンガーソングライター米津玄師さんがTVで初めて生の歌声を披露し話題となりました。その生中継の舞台となったのが彼の故郷・徳島県鳴門にある大塚国際美術館でした。実は、12月28日に阿部師と一緒に訪問したばかりでしたので、バチカンのシスティーナ礼拝堂を原寸大に立体再現させた「システィーナ・ホール」が無数のキャンドルに照らされた中でのライブにはびっくりしました。

大塚グループの二代目社長で初代館長の故・大塚正士氏の「一握りの砂」と題する紹介文によると、世界初の陶板美術館の誕生は最初から意図されたものではなかったそうです。1971年頃、部下2人が一握りの砂を机の上に盛り上げ、「社長、これは鳴門海峡の砂です」と、砂の説明が始めた。うちの工場は紀伊水道に面していて、白砂海岸がずっと海峡まで続いている。この砂でタイルを作らせてほしい。この砂はコンクリートの原料として大阪や神戸に運ばれトン幾らで安く販売されている。これをタイルにして売れば、価値ある製品となり徳島県や会社のためにもなるという提案。それから、知事の認可、技術に優れた信楽焼の会社との合弁会社の設立と話が進んだ。ところが、会社設立の昭和48年に石油ショックが起こり、石油価格が12倍に跳ね上がるという異常事態。タイルが売れない。そのとき、“陶板に絵を描いて美術品の方にシフトしよう”という案がでた。まずは尾形光琳の「燕子花(かきつばた)」を制作。以後、美術品制作に会社挙げて取り組んだ。かつてインド洋に沈んだオランダ商船の荷物(中国の景徳鎮や日本の有田焼)を数百年後に引き上げたところ、陶磁器類は昔のままの色と姿で残っていた。当時の陶磁器はおよそ千度で焼き上げたもの。大塚では千三百度で焼く特殊技術を持っている。この技術ならば二千年は耐えられるという自信があった。そこで、世界中の美術館の素晴らしい作品を陶板に焼いて展示する構想が生まれた、そして大変な労苦の末、千点を超える名作を擁する陶板美術館が1998年(平成10年)3月に誕生したという次第。

バチカンのシスティーナ礼拝堂では上を見上げることしかできませんが、鳴門ではバルコニーから天井近くの絵を近くでゆっくり見ることができます。皆様もいつかいらしてみて下さい。

主任司祭 松尾 貢


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