上野の東京国立博物館の特別展「顔真卿 ― 王義之を超えた名筆」(1月16日~2月24日)が好評のようです。春節で中国からやってきた観光客も大勢押し掛けました。なぜなら、台北の故宮博物館や香港・日本の博物館や美術館蔵の著名な書が集まっているだけでなく、書の歴史を俯瞰しつつ、顔真卿(709~785)の人物像や書の特徴を探り、後世や日本に与えた影響を多角的に考察しようという試みが感動を与えているからだそうです。
10年ほど前、父と一緒に台湾TDKに勤めている弟宅を訪ねたことがあります。その時、まず行った観光名所が台北の国立故宮博物館でした。“北京の故宮は建物のスケールは大きいが中身は大したことはない。むしろ台北の故宮の方が価値の高い所蔵品が圧倒的に多い”という説明を聞きました。1948年、蒋介石の国民党が台湾へ渡った時、北京故宮博物館から運び出したおびただしい数の美術品・工芸品が所蔵されているからです。今日はその一つ、中国史上屈指の名書と言われる顔真卿の「祭姪文稿」(さいてつぶんこう)を一目見たいと、春節で日本を訪れた多くの中国の方が上野を目指したというわけです。
〈書〉といえば、豊臣秀吉・秀頼に“祐筆”として仕えたキリシタン武将安威了佐がいます。1584年に高山右近の影響でシモンという霊名で洗礼を受けた武将です。1586年、右近が高槻から明石に移封された後、高槻は秀吉の蔵入地となりますが、その代官として任じられたのが安威了佐でした。了佐が代官となって右近移封後の支配を委ねられたことを「その地の賤民や農民たちの暮らしにとって、偉大なデウスの御摂理であった」と喜び、その理由を「異教徒の奉行の掌中に帰しておれば、農民は、少なくとも表向きは、決して信仰を守りえなかったであろう。だが、安威殿の庇護の許に置かれたために信仰を保つことができるのである」と、フロイスはその著『日本史』で述べています。一方、箕面市の龍安寺や勝尾寺には寺域を安堵した了佐の判物からも、右近に倣った他宗に対する寛容さも伺えます。文禄元年(1593年)九州名護屋に下った際、ドミニコ会修道士と秀吉の謁見の様子をイエズス会に報じるなど、了佐のイエズス会に対する好意的姿勢は一貫して変わることがありませんでした。
主任司祭 松尾 貢